最大の障壁、大鵬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:14 UTC 版)
幕内最高優勝6回は柏戸剛(5回)より多く、横綱としては悪くない成績であるが、その一方で全勝優勝は一度も無かった。全勝優勝が一度も無かった大きな理由は大鵬幸喜との合い口の悪さで、通算5勝27敗(不戦勝・不戦敗が1回ずつ、優勝決定戦で1勝1敗)と大きく負け越しており、大鵬に本割で勝利しての幕内最高優勝も果たせなかった。6度の幕内最高優勝のうち、4度は大鵬の休場もしくは番付の関係で対戦が無く(1度は不戦勝)、残り2度は本割で敗れての優勝である。特に大関2場所目の1962年7月場所から横綱3場所目の1965年7月場所にかけて15連敗(この間に不戦勝・不戦敗が1度ずつ)を喫しており、佐田の山の横綱昇進における最大の障壁となった。体格差が仇となり、左右どちらでもがっぷりになると勝負にならず、取組が長引けば長引くほど勝機は無かった。唯一と言って良いほどの活路は佐田の山得意の突っ張りで先手を取り、大鵬に上手を許す前の決着と言われていたが、そうはさせまいとする強さ、巧さが大鵬にあり、正攻法の相撲を繰り出す佐田の山に攻め手が無かったのが原因である。 毎場所のように渡って同じような相撲を見せては敗れるため、「勝利すれば優勝」という場面での対戦が最も多い力士である。佐田の山が勝利すれば優勝、もしくは優勝決定戦へ進めたケースが通算8回もあり、大鵬にもう少し勝利していれば優勝回数が二桁になることも可能だったと言われている。それでも大鵬より格下に見られることを極端に嫌っており、1965年11月場所千秋楽で大鵬を押し出しで破った際に記者から「おめでとうございます」と言われると不機嫌そうに「ワシは横綱だぞ」と一蹴したほどである。 大鵬も、闘志むき出しで向かってくる佐田の山には「ライバル」とされた柏戸とは異質の激しい闘志を燃やしたという。一方で大鵬自身は、何度も壁として立ちはだかりながらそれを跳ね除けて横綱昇進を勝ち取った佐田の山に対して「相撲道の『忍』を地で行った敬服すべき横綱」「佐田の山関の横綱昇進ほど、清々しいものを感じたことは無い」という賛辞を送り、佐田の山の引退時には深い哀惜の念を感じたという。 素質の面でさほど優れているわけではないが、猛稽古と激しい闘志、そして名門・出羽海一門を背負って立つ責任感で横綱へ登りつめたとも評価されている。本人も引退後、インタビューで「闘魂が無くなったらどうにもならない」と語っていた。
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