書契問題の停滞と征韓論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:57 UTC 版)
明治新政府が成立すると、日朝間には新たに「書契問題」が発生する。発端は明治元年(1868年)に従来の外交ルートである対馬藩を通じて、日本政府が王政復古したことを知らせる朝鮮への国書の中に、従来使用されていなかった印鑑や「左近衛少将」「朝臣」「皇」「勅」などの文言が含まれていたこと、礼曹参判への呼称などが従来の書契形式と異なることなどに対し、朝鮮側が難色を示し、国書の受理を拒否したことである。新政府はその後、版籍奉還・廃藩置県を進め対馬藩も消滅。対朝鮮交渉事務も対馬藩から外務省へ移管する。柳川一件をはじめ、これまで時に国書の偽造まで行って両国の融和を図ってきた対馬藩というクッションが無くなった結果、朝鮮側も態度を硬化させ、書契問題は長期化した。特に明治5年(1872年)外務省権録森山茂・広津弘信らが書契を携行した際、蒸気船満珠丸で渡朝したことは、丙寅・辛未洋擾や八戸事件で蒸気船に警戒心を強めていた朝鮮側を刺激し、これを理由に倭学訓導安東晙から拒絶されている。その後大院君が癸酉政変で失脚し、対日開国派の朴珪寿が主導権を握るが、書契問題は解決しなかった。これらの情報が日本へもたらされると、日本国内の士族を中心に征韓論が沸騰することになる。1873年10月には征韓論政変が起き、西郷隆盛・板垣退助らが参議を辞職する騒動となった(明治六年政変を参照)。
※この「書契問題の停滞と征韓論」の解説は、「八戸事件」の解説の一部です。
「書契問題の停滞と征韓論」を含む「八戸事件」の記事については、「八戸事件」の概要を参照ください。
- 書契問題の停滞と征韓論のページへのリンク