書契事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 03:57 UTC 版)
明治政府が樹立されると、日本はその旨を伝えるため、朝鮮に対し国書を送るが朝鮮は江戸時代を通じて、宗氏を通して伝達が行われていたため受け取りを拒否。そこで、改めて対馬藩の宗氏を介し送った。しかし、従来使用されていなかった印鑑が使われ、国書の中に「左近衛少将」「朝臣」「皇」「奉勅」などの用語が使用されていたことや「礼曹参判」への呼称などが従来の書契形式と異なることなどに対して朝鮮側が難色を示し、国書の受理を拒否した。 当時、日本は西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、逸早く開国し明治維新によって近代国家を目指し、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとして送った国書であったが、開明的な考え方の日本に比べ、閉鎖的、旧時代的な考え方にたつ朝鮮は、日本が送った国書の書式(書契)に「皇」や「勅」の文字があったため、日本の意図を曲解して受け取りを拒否したのである。中華思想における冊封体制下では「皇上」や「奉勅」という用語は中国の王朝にのみ許された用語であって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである(書契事件)。
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