昭和〜現代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 07:21 UTC 版)
大正後期から昭和初期にかけて大大阪時代と呼ばれた隆盛期は昭和恐慌により一転し、第二次世界大戦で焼け野原となった。約40%の人が罹災し、約250名が死亡、2400名が重軽傷を負った。 戦後、大阪市は1947年(昭和22年)から近藤-(中井)-中馬-大島と日本社会党系の市長を連続して輩出し、以降も自社相乗りの大阪市制を継承し浮浪者・貧困対策を重視した経緯から、西日本各地の貧困・浮浪者層が次第に大阪市に集積し、各地にドヤ街を形成したが、やがて釜ヶ崎一帯に集約されることで現在に至る。『都市問題研究』に収められている1959年の「西成区釜ヶ崎実態調査」によると、当時、定職を持つ者は4割、移動労働者が4割、無職者が2割だったとのこと。また、この地域に住んでいた人は世帯持ち(2割)、30~50代の単身生活者(5割)、反社会的一群(2割)、障害・老齢の身で細々生きている人たち(1割)の4つに分類できるとのこと。1961年、老年の日雇い労働者が交通事故で死亡し、その際の警察の対応に不備があったことを発端として、第一次釜ヶ崎暴動が発生。それと同時期に釜ヶ崎対策が発表され、西成保健所分室、「市立愛隣会館」といった福祉施設の充実と「市立愛隣寮」、「市立今池生活館」といった施設による住宅政策の二つが推進された。大阪万博開催の1970年(昭和45年)には現在のあいりん労働福祉センターが設置されている。設置される以前は同センターの南側が賭博の場所として使用されており、日雇い労働者が集まる場所はそこから西にそれた場所にあった。 現在において釜ヶ崎の呼称は、上述のとおりあいりん地区の別称に残るほか、関連して「釜ヶ崎用語」などのような使われ方がされている。
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