星と隕石に関する伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/28 09:52 UTC 版)
南野隕石の落下地であることを示す石碑。(名古屋市南区南野、2022年(令和4年)1月) 南野隕石を祀る喚続社。(名古屋市南区星崎、2022年(令和4年)1月) 星崎一帯には、古来から星や隕石についての記録や伝承が残っている。星崎の地名については以下の説がある。 尾張徇行記は、承平5年(935年)、平将門の乱が起きた際、勅命により熱田大明神(熱田神宮)で平将門調伏の祈願を行ったという伝承を記している。別説に、「熱田年中行事」には、熱田神宮の神輿を星宮社に渡御したとある。社家が祈願をすると、星宮社で七星が耀いたので、その村を星崎と呼ぶようになったという。 尾張志は、「星社あるによりておこれる星崎の地名ならむには星崎とよめる歌の堀河天皇初度の百首に見えたるにても其時代は大概おしはからるる也」とし、星宮社が地名の由来であるとしている。愛知郡誌は、同じく「星崎の地名は、星宮社有によりて起これるものならんか」と考察を付している。 毎日新聞の「町名由来記」(1954年)は、元久2年5月24日(1205年)、入江に明星が降りたことから星崎と鳴海の地名が生じたと記している。この伝承は修験地蔵院の地蔵縁起に基づくものであり、尾張徇行記の山崎村の項にも記載されている。同日、天地がにわかに震動し、海上が鳴り響き、数多くの星が雷のように光輝いた。しかし、里人が海上に出てみると何の痕跡も残っていなかった。この時から「なるみ(成海)」を「鳴海」と表記するようになり、明星が下った場所を「星崎」と呼ぶようになったという。 確実な記録としては、寛永9年8月14日(1632年)、本地村の隣村であった南野村に落ちた「南野隕石」がある。当時の様子が尾張名所図会の付録「小治田之真清水」に描かれている。隕石は「星石」として民家に保存されていたが、文政12年(1829年)、同村にある喚続社(よびつぎしゃ)に寄進され、その神体になった。隕石を収められている木箱には表に「霊石」と書かれている。昭和51年8月15日(1976年)、国立科学博物館の村山定夫により隕石と同定され、「南野隕石」と命名された。現在、落下年代が分かっている隕石としては、直方隕石に次ぎ、日本で2番目に古いものである。 8世紀、13世紀にもこの地方に「隕石が落ちた」という言い伝えがある。その一部は上記の承平5年(935年)と元久2年(1205年)の伝承を指していると考えられる。なお、星宮社が隕石の落下地点であるとか、隕石を神体として祀っているというわけではない。
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