明治・大正・昭和期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:58 UTC 版)
明治政府は当初江戸幕府の法を継承したが、まもなく養老律令と『刑法叢書』そして清国法を元として仮刑律を制定した。仮刑律では笞刑、杖刑、徒刑、流刑と死刑が定められた。その後、1870年の新律綱領でも刑罰は継承されたが、1871年の懲役法で笞刑と杖刑が廃止され、西洋法を取り込んだ1873年の改定律例では徒刑と流刑が懲役刑に置き換わることとなった。自由刑を執行する行刑施設を規定する法令として1871年に徒場規則が制定され、翌年の1872年に欧米諸国(主にフランス法)に学んだ監獄則が制定された。監獄は集治監、監倉、懲役場、拘留場、留置場、懲治場の6種類と定められた。このうち「懲治場」は若年者を収監する監獄であり、幼年監獄とも呼ばれ、後に少年刑務所となる。また当初裁判所の管轄下に置かれた「監倉」は未決囚を収監する監獄であり、後に拘置所となる。1881年・1889年・1899年に監獄則は改正された。ドイツ法に学んだ1889年改正監獄則では監獄を集治監、仮留監、地方監獄、拘置監、留置場、懲治場の6種類に分類した。1908年に監獄法が制定され、監獄は懲役監、禁錮監、拘留場、拘置監の4種類と定められた。 明治期の監獄は当初、政府が設置する集治監と道府県庁が設置する集治監以外の監獄に分けられた。後者は牢屋(牢屋敷)及び徒場(徒刑場、徒罪場)と言う名称で道府県庁聴訟課により設置されていたが、1873年に囚獄及び懲役場と改称された。前者の集治監は東京府と宮城県に設置され、後に北海道と福岡県にも設置された。集治監の行政組織は集治監官制と北海道集治監官制によって定められた。1893年に地方官官制が制定され、道府県庁の設置する監獄は監獄署と改称された。1900年に内務省官制と司法省官制の改正が行われ、行刑政策は司法省の管轄下となった。同年、府県監獄費及府県監獄建築修繕費ノ国庫支弁ニ関スル法律(監獄費国庫支弁法)が制定され、道府県庁の設置する監獄署も国費で運営されるようになった。1903年に集治監官制の後法として監獄官制が制定され、道府県庁の設置する監獄署も全て司法省に移管されて名称を監獄で統一された。1922年(大正11年)に監獄官制が全面改定され、刑務所及び少年刑務所と改められた。
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