旧・イラク共和国
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詳細は「7月14日革命」および「en:History of Iraq under Qasim and the rise of Arab nationalism」を参照 ナーセル大統領に感化され、アブドルカリーム・カーシム准将とアブドッサラーム・アーリフ大佐が率いる自由将校団(英語版)がクーデター(7月14日革命)を起こし、1958年7月14日、ハーシム君主制は終焉した。君主ファイサル2世と元摂政アブドゥル=イラーフと前首相ヌーリー・アッ=サイードは処刑された。 新政府はイラクを共和制とし、中東条約機構(METO)からは脱退した。新憲法は、イラクが共和国であることを宣言した。国家の指導者として、3名の主権評議会を設立。国民を代表する組織は作られなかった。カーシムが首相・国防大臣・最高司令官を兼任し、副首相兼内務大臣にアーリフ、自由将校団から数名登用、愛国民主党とアラブ民族主義の文民を登用。この後、カーシム首相はエジプトと距離を置いたため、親エジプト派と対立した。カーシムとアーリフ(ナーセルの信奉者・アラブ民族主義者)の間には、イラクのアイデンティティという問題が存在していた。つまり、イラクは国民国家であるのか、あるいは、広い意味でアラブの一行政区域であるのかという問題である。親エジプト派の抵抗を抑えるために、カーシム首相はソ連に亡命中のクルド人指導者ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)の帰国を許可し、さらに、親エジプトのアーリフを罷免し投獄した。 1961年、イギリスはクウェートを独立させた。イラクはクウェートの支配権を主張したが、イギリスはこれに反発してクウェートに軍を派遣した。1963年2月、クウェート支配を主張するカーシム首相はクーデター(ラマダーン革命)により処刑され、代わりにバアス党が軍事政権を作った(第1次バアス党政権)。 1963年10月になって、イラクはクウェートの自治を承認した。 バアス党が政権を作った9ヵ月後、アブドッサラーム・アーリフ大統領は、政権内部のクーデター(1963年11月イラククーデター)により、バアス党を駆逐した。1966年、アーリフ大統領は航空機事故で死亡し、彼の兄アブドッラフマーン・アーリフが大統領となった。
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