旧ヘッセン選帝侯家の世襲財産
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「フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン (1854-1888)」の記事における「旧ヘッセン選帝侯家の世襲財産」の解説
ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は1866年普墺戦争の敗北に伴い領邦主権を失っていた。選帝侯は家督相続権者筆頭のフリードリヒ・ヴィルヘルム(2世)と1873年に家内協定を結び、ヘッセン=カッセル家の家督と諸侯としての体面を維持するための年金60万6000マルクの支給を約束し、協定は1876年発効することに決まった。ところが1875年選帝侯が亡くなると、先祖伝来の銀器一式などを含む選帝侯家世襲財産の管理権は、1876年1月1日付でヘッセン=ナッサウ州(英語版)カッセル行政府に帰属することになった。1831年ヘッセン選帝侯国憲法(ドイツ語版)では、ヘッセン=カッセル家の個人財産の管理・運営は、ヘッセン選帝侯国政府による関与が一切認められていなかった。ところが選帝侯国を1866年に併合したプロイセンは、戦勝国として選帝侯国を併合したのみならずヘッセン=カッセル家の個人財産をも接収し、政府の裏金として利用した。重要と見なされた不動産のみならず、金銀宝石類、文化的価値のある芸術品なども接収を免れなかった。方伯家からの相続請求に対して、プロイセン政府は旧選帝侯家の所有していた諸城や公園から上がるに収入から、年額60万マルクの年金を方伯家に対して支給することにした。1878年、方伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(2世)は、1873年の家内協定に基づく、新しい旧ヘッセン選帝侯家世襲財産を設定することを認められた。1831年に設定されたが 、最後の選帝侯の死後プロイセン政府が一旦没収したヘッセン選帝侯家世襲財産を、いわば弁済するものであった。世襲財産にはフルダ市街宮殿(ドイツ語版)、フルダ郊外のファザネリー城(ドイツ語版)、ハーナウ郊外のフィリップスルーエ城(ドイツ語版)、ヴィルヘルムスバート(ドイツ語版)のキジ園(英語版)、カッセルのベルヴュー宮殿(ドイツ語版)、ヴァバーン狩猟用城館(ドイツ語版)、銀器や宝石類・装飾品などの多くの動産が含まれた。年金受給額は60万6720マルクと定められた。方伯とプロイセン政府の間の国家協定に関わる財産設立文書は、1878年8月26日から同年12月23日の間に、ドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世によって裁可を受けた。 1884年、新たにヘッセン=カッセル家家長となった方伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(3世)は、フルダの諸城やハーナウのフィリップスルーエ城をはじめとする方伯家の資産保有者となると同時に、父とプロイセン政府との間に成立した国家協定に基づき、政府からの年金受給者資格をも引き継いだ。
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