日本滞在期間 1779年 - 1784年
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「イサーク・ティチング」の記事における「日本滞在期間 1779年 - 1784年」の解説
ティチングは日本のオランダ商館長(カピタン)として1779年から1780年、1781年から1783年、そして1784年に派遣された。任期中、日本のオランダ東インド会社商館長の重要性は幕府が推し進める鎖国政策により高まった。16世紀のヨーロッパ人による布教に対し幕府は日本への出入国に死刑を科し、日本人・外国人を問わず出入国ができなくなった。鎖国下の日本での唯一の例外が長崎にある出島のオランダ商館であった。オランダ商館はこの統制下にあって、日本がヨーロッパと唯一交易や科学知識を交換するパイプ役を担った。 一方、日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャルパンティエ・ド・コシニー(Joseph-François Charpentier de Cossigny)らによる「ベンガル航海記」に記載され、オランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。そこには、将軍の義父がティチングと始終文通を行い、ティチングの目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある。 オランダ商館長は一年に一度の江戸参府を命じられ、江戸にいる間は日本の大名と名目上は同じ立場であった。ティチングは2度の江戸参府を行い、10代将軍徳川家治と謁見した。また江戸では蘭学者(中川淳庵、桂川甫周、朽木昌綱ら)とも積極的に交流した。ティチングは、日本の社会・文化・風俗に深い関心を寄せ、蘭学者らと頻繁に文通を行うとともに、後に日本に関する著作を残した。特にこの頃の田沼時代の政治・社会情勢や、大岡忠光などの人物像を書き記したことは特筆に価する。
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