日本武尊の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 03:21 UTC 版)
詳細は「ヤマトタケル」を参照 即位27年8月、熊襲が再叛。10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させる。小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得る。翌年に復命。 即位40年8月、大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じる。先立つ即位25年7月から27年2月、武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させて豊かな土地を発見したからであった。しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し美濃国に封じられた。結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授かった。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。日本武尊はそのまま伊勢国に入るが能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり30歳で崩御、埋葬された後に白鳥となって飛び去った。途中で舞い降りた大和国と河内国にも白鳥陵が造られた。出発から三年後のことである。 天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡って10月に上総国に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰った。そのさらに翌年の即位55年、叔父である豊城命の子の彦狭島王を東山道十五国の都督とした。しかし任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなってしまった。そこで翌年に改めて彦狭島王の子の御諸別王を派遣した。 即位58年に近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年11月、崩御。 『古事記』は天皇の東国巡幸、近江行幸を記していない。志賀高穴穂宮は『古事記』では次代の稚足彦天皇(成務天皇)の都とされている。
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