日本外務省時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:38 UTC 版)
「ダーハム・W・スティーブンス」の記事における「日本外務省時代」の解説
1883年11月、スティーブンスはワシントンの日本公使館で英語の書記官として働くことになった。これは、ビンガムが日本政府への影響力を有していたおかげだった。 1884年、彼は日本の外務省で勤務するために東京へ行くように命じられた。1884-85年の冬、当時の外務卿であった井上馨に同行して朝鮮に渡り、朝鮮の日本人居留民が殺害された甲申政変に関する交渉を補助した。この功績により、彼は明治天皇より勲三等旭日中綬章を授与された。 1885-87年に開催された東京会議は、西洋の国々が日本に押し付けた不平等条約の再交渉を目的としていた。スティーブンスはこの会議のプロトコル(外交儀礼)を担当する部署にいた。会議の後、彼は公使館の名誉顧問の地位と共にワシントンに戻り、当時在米公使だった陸奥宗光の下で働いた。スティーブンスはメキシコ合衆国との日墨修好通商条約締結に向けた交渉を補助した。この条約は、日本が独立国として主権を行使する権利を認めた初の条約だった。 日清戦争が開戦してすぐ、スティーブンスは雑誌『ノース・アメリカン・レビュー(英語版)』に記事を投稿した。その記事で、彼は清の保守主義の腐敗が朝鮮(李氏朝鮮)の発展を妨げたと断言し、清の朝鮮における影響力が減少しそれに応じて日本の力が増大することで朝鮮の社会的、商業的な改革につながるだろうと主張して、日清戦争を正当化しようと努めた。 戦争中の業務が評価され、スティーブンスは勲二等瑞宝章を授与された。彼は日本の国益を代表して2回ハワイに行った。1回目は1901年、2回目は1902年だった。彼はまた、日本政府からさらに2回勲章を授与された。3回目は勲二等旭日重光章、4回目は1904年10月に授与された勲一等瑞宝章だった。
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