日本人の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 22:14 UTC 版)
1879年頃、日本人が続々とポンティアナックに渡ったとされている。蘭印においてはヨーロッパ系住民と原住民を対象とする別個の差別的法体系が存在していたが日本人移住者、在留者は原則としてヨーロッパ系住民に準じる処遇を受けた。 1916年以前にスラバヤ市に日本人が進出しており、台湾籍の日本人も少なくなかった。1916年にはそこに三井物産出張所、台湾銀行出張所、大阪福島洋行、東京潮谷商会支店、東印度貿易組合、橋本、岡崎、高橋、その他二、三の雑貨店があった。 1920年10月に、バタヴィアにおいて日刊邦字新聞の瓜哇日報が発刊される。また、南洋協会瓜哇支部が月刊誌の蘭領東印度時報を発行した。 1933年9月、蘭印政府は明らかに日本商品の進出を阻止することを目的とした緊急輸入制限令を発布し、セメントの輸入を制限し、12月にはビールの輸入も制限した。日本の外務省が対策を考えていたところ、オランダ政府が貿易調整を目的とした会議の開催を希望したため、結果が出るまで日本に不利となる新措置を取らないことを条件に、1934年6月8日から日蘭会商が開始されたが、成果なく1934年12月21日に一時打ち切りとなった。会議中においても、蘭印政府は約束を無視して陶磁器、鉄フライ鍋、サロン綿布、晒綿布の輸入制限を新たに開始し、会議打ち切り後は40余種の商品に対して制厳令を乱発し、日本と蘭印は対立の状態となった。
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