日本人による世界一周とは? わかりやすく解説

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日本人による世界一周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 06:28 UTC 版)

世界一周」の記事における「日本人による世界一周」の解説

詳細は「津太夫」および「善六」を参照 世界一周行なった最初日本人は、仙台舟子である津太夫延享元年1744年) - 文化11年1814年7月29日)、儀兵衛(平)、太十郎、および左平の4人であるとされることがある寛政5年1793年11月21日仙台舟子津太夫16人は江戸運送する糧を若宮丸載せ石巻港出発した暴風遭って漂流し翌年6月上旬アリューシャン列島漂着10ヶ月余の滞在の後、翌年4月上旬出発6月オホーツク上陸した8月から翌年夏までの間に、一行3度分かれてシベリア奥地入りイルクーツク合流同地官吏保護を受けつつ寛政8年1796年)から享和2年1802年)まで滞在した皇帝から上京の命を受け、3月出発シベリア横断して4月ペテルブルク入ったが、その時3人は既に病死し、3人は途中の街で落伍した一行客人として歓待され皇帝謁見許された。5人を残して津太夫儀兵衛太十郎および左平の4人と使節ニコライ・レザノフ通訳任命され善六はナデジュダ号に乗船し6月バルト海から大西洋出たカナリア諸島経てブラジル立ち寄り、翌文化元年1804年)に太平洋入りマルキーズ諸島ハワイ諸島経てカムチャツカ到着善六はここで下船したが、ナデジュダ号は同年秋に航して9月長崎到着した使節目的である通商条約締結には至らなかったが、4人は長崎鎮台引き取られ、さらに伊達家引き渡され文化2年1805年12月末、江戸伊達屋敷にはいった。ここで取り調べを再び受けた後、翌年帰郷した厳密には、日本に戻らなかった善六含めた5人であるともいえる。 この世界一周マゼランの約280年後、前後13年にわたるものであった

※この「日本人による世界一周」の解説は、「世界一周」の解説の一部です。
「日本人による世界一周」を含む「世界一周」の記事については、「世界一周」の概要を参照ください。

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