日本の公娼制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:19 UTC 版)
日本における公娼制度の歴史は、必ずしも明らかではなく、1193年(建久4年5月15日)に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝が里見義成に遊女別当を命じた(『吾妻鏡』)ことが、関連する史実の文献初出であろうという。[独自研究?] 室町時代足利氏は、1528年(大永8年)、傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じ鑑札を与えて税金を取った。売春業を公に認めたのである[要出典]。 戦国時代には、続く戦乱によって奴隷売買も盛んになり、遊女も増えた[要出典]。「天文・永禄のころには駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷市場ありて、妙齢の子女を購い来たりて、之を売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」と言う。 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 のだという。
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