新明和工業 バイク事業参入と撤退とは? わかりやすく解説

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新明和工業(株) バイク事業参入と撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 06:53 UTC 版)

シンメイワ・ロードレーサー」の記事における「新明和工業(株) バイク事業参入撤退」の解説

新明和工業前身川西航空機で、太平洋戦争後はGHQにより日本での航空機製造禁止されたため、他の事業参入せざるを得ず、そのなかにバイクオート三輪生産事業があった。本企業バイク商品名ポインター」は、阪神地域ではバイク代名詞となるほど有名であった大正時代日本には企業として航空機メーカーがまだ存在しなかった頃に、海軍機関大尉 中島知久平(後の中島飛行機社長)が航空機製造会社設立するために1918年海軍辞職する。そして会社設立資金出資日本毛織社長川西清兵衛依頼し日本初航空機製造会社 日本飛行機製作所設立する。翌1919年陸軍へ航空機納入決まり経営軌道乗りかけてきたところで中島川西仲違いし1920年川西独自に川西機械製作所航空機製造開始する。そして、1928年社名川西航空機変更する太平洋戦争後は、1946年2月バイクエンジン製造始め同年4月には宝塚発動機製作所設立する。そして1947年7月クラッチエンジン発売する1948年には4ストロークサイドバルブエンジン、1951年には4ストロークOHVエンジン試作成功1952年にはついにポインター・エースとポインター・コメットを発売する1956年には2ストロークエンジン搭載のポインター・エースVI発売し4ストロークエンジンをやめて2ストロークエンジン採用するうになる。しかしポインター・エースIV後発ヤマハ比べて軽快感がなく鈍重であった会社経営陣も改善策思案したが、経営陣には思い切った決断をできる人物がおらず、1962年2月には日立製作所伊藤敏雄を社長として招いて日立支援を得るが、日立意向により伊藤バイク事業からの撤退決断し、バイクメーカーとしての幕を閉じる。

※この「新明和工業(株) バイク事業参入と撤退」の解説は、「シンメイワ・ロードレーサー」の解説の一部です。
「新明和工業(株) バイク事業参入と撤退」を含む「シンメイワ・ロードレーサー」の記事については、「シンメイワ・ロードレーサー」の概要を参照ください。

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