新幹線計画におけるモデル線
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「モデル線」の記事における「新幹線計画におけるモデル線」の解説
こうして新幹線計画は十河信二国鉄総裁と島秀雄技師長のもとで実現に向かって動き出した。1959年(昭和34年)4月には新丹那トンネル東側坑口(来宮口/来宮駅側)で全線の起工式が行われた。標準軌上を時速200m/h以上のスピードで営業運転する新路線の工事を5年後の1964年(昭和39年)3月に完了させ、東京オリンピック開催までに開業を実現するために、全線開通を待たずに試作車両や新設備の実地試験を行える場、「モデル線」が計画された。高速鉄道を走らせる基礎研究は「原理的には解決済み」であったが、それを実用化するまでにはまだまだテストして解決しなければならない課題が山積していた。 国鉄は新幹線を建設する上で最初から最後まで資金調達に苦しんだが、資金調達の一環として世界銀行から8000万ドルの借款を受けることに成功し、1961年(昭和36年)5月に正式調印の運びとなった。これで新幹線は世界銀行にも認められた日本の国家的プロジェクトとなり、たとえ政権担当者が変わっても中止の憂き目を見る心配はなくなった。しかし、計画通りに新幹線建設をやり遂げる責任は一層重くなった。
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