新制移行から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/17 17:01 UTC 版)
「広島大学旧理学部1号館」の記事における「新制移行から現在まで」の解説
新制大学移行によって旧文理大本館は、1949年5月に発足した広島大学の理学部1号館(本館)に転用、正門からこの建物の正面までキャンパスの中央通り(初代学長森戸辰男にちなみ「森戸道路」と命名)が建設された。理学部1号館は、隣接する位置にあって同様に倒壊を免れた旧高師附属国民学校校舎とともに、圧倒的な施設不足の状態に置かれていた初期の広島大学を支えることとなった。また文理大の事実上の最後の学長であり戦後は教育学部教授となった長田新が『原爆の子』の編纂を行ったのもこの建物においてであった。 しかし老朽化に抗することはできず、1985年頃から北面を中心に壁面タイルが剥落するようになり、各学部の東広島キャンパスへの統合移転が進むなか、1991年9月、理学部の移転によって旧理学部1号館は空き屋となった。現在も存続する東千田キャンパス(かつての広大本部キャンパスのごく一部分である)の施設を除き、他の大学の建造物がすべて撤去された現在、キャンパス跡地の「東千田町公園」にほとんど補修もなされないまま「被爆建造物」として現状保存されている。 なお公園の門柱となっている入口の石柱(花崗岩製)は、文理大(および高師)の正門門柱として1935年に設置された被爆建造物であり、のち広島大学の門柱としても使用されたものである。また、先述の被爆者の血痕が付着した壁面タイルは、被爆時の状況を示す貴重な遺物として2枚の衝立に仕立てられ、移転先の理学部校舎内に保存・展示されている。
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