斎藤家滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:13 UTC 版)
信長は、浪人していた重治を自分の家臣として登用したいと考えた。美濃攻めで頭角を現していた木下秀吉(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じ、秀吉は「三顧の礼」で重治を誘ったとされる。重治はこのとき、秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したとされる。竹中重門の著した『豊鑑』には、信長が秀吉の要請を受けて、牧村利貞、丸毛兼利と共に与力として秀吉の下に付けたことが記されている。 後に信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、重治は浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍した。元亀元年(1570年)には浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせている(『浅井三代記』)。直後の姉川の戦いにも安藤守就の部隊に参加した。この合戦の後に信長の命で横山城に秀吉とともに残し置かれ、この頃から信長直臣から秀吉の与力へと転じたと推測される。 秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。天正6年(1578年)5月24日、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させ、この報告のため京都に赴き信長に賞賛され銀子100両を授けられて播磨へと帰陣した(『信長公記』)。同年、信長に謀反を起こした荒木村重に対して(有岡城の戦い)、秀吉幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛・監禁され外部との連絡を断たれたため、信長は孝高が村重に加担したと思い込み、孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は信長の首実検に際し、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷に匿った。のち、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。 天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れ、陣中にて6月22日に死去した(『信長公記』)。享年36。
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