斎藤家臣時代
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盛就は美濃の戦国大名斎藤氏の家老を務めた日根野弘就の弟だが、『太閤記』では弘就の異母弟とされている。兄と共に斎藤家臣として尾張国の織田信長と度々交戦しており、永禄4年(1561年)の森部の戦いでは魁の武功を顕した。 永禄6年(1563年)4月の新加納の戦いでは日根野弘定と共に織田軍を迎え撃ち、池田恒興・坂井政尚らを破った。また同年8月に織田軍が再侵攻してきた時は高田(現岐阜県岐阜市高田)の竹薮で待ち受け、日根野隊を確認した織田軍が撤退を始めると追撃をかけたが、織田軍がそのまま退いたので日根野隊も深追いせず兵を退いた。 このように織田軍との戦いで度々功を挙げていたが、信長の勢いはやがて徐々に斎藤を凌駕し、永禄10年(1567年)の稲葉山城の戦いで戦国大名としての斎藤氏が滅亡すると兄弘就ともども浪人となった。
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斎藤家臣時代
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美濃斎藤氏の有力家臣であった西美濃三人衆の一人、安藤守就の長男として誕生。諸系図などでは「尚就」とされるが現存している書状の名義は全て「平左衛門尉定治」となっている。また、父同様に伊賀姓を名乗る事も多く、『信長公記』などは「伊賀平左衛門尉」として掲載されている。 永禄9年(1566年)、日根野弘就・竹腰尚光・氏家直元と四人の連署で甲斐武田氏へと織田信長の近況を報じた書状が初出。従来では定治を除く三人に守就を加えた四人の連署が慣例であったがこの時は何らかの理由で父の代理で文書の発給人に名を連ねたを思われる。 永禄10年(1567年)、守就の内応に従って斎藤家を離反し織田信長に鞍替えした。
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