文学・文化との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/02 18:57 UTC 版)
「西陣京極」にかつて存在した千本座は、同館の館主であった牧野省三が横田商会(日活の前身の一社)の依頼により、同館に出演する俳優を使用して劇映画を製作・監督したことで「日本の時代劇映画発祥の地」として知られる。1908年(明治41年)9月17日に公開された最初の作品である『本能寺合戦』や、日本初の映画スターである尾上松之助が初めて出演し同年12月1日に公開された『碁盤忠信源氏礎』は、千本座裏の敷地や大超寺境内で撮影されている。 「千本座」、「牧野省三」、および「横田商会」を参照 1921年(大正10年)に志賀直哉が発表した小説『暗夜行路』に、主人公のよく行った場所を列挙するなかで、 「西陣京極」と云はれる千本通り というフレーズが登場する。『枕草子』研究で知られる田中重太郎(1917年 - 1987年)が学生であった1930年代には、「西陣京極」にある西陣長久座や西陣八千代館といった映画館で映画を観たという。これらは現在の西陣京極商店街の小さな区域だけでなく、千本通今出川までが「西陣京極」と呼ばれていたことを示す。 1962年(昭和37年)に水上勉が発表した小説『五番町夕霧楼』では、1950年(昭和25年)ころの時代を描いており、このなかでも主人公たちは、赤線のあった五番町からすぐ近くの「西陣京極」の映画館で2本立ての映画を観て、すし屋の「天六」で食事をしている。水上は回想記『わが女ひとの記』(1983年)では、戦前の「西陣京極」の映画館について言及しており、「千本座は入場料も五銭か十銭高くて、格がちがっていた」「長久座は松竹、昭和館は新興キネマ、西陣キネマは大都映画である」とする。「千本座も、長久座も昭和館もなくなりました。西陣キネマだけがいまは残って眺めます」とあるが、西陣キネマは同作発表の翌年1984年(昭和59年)に閉館している。このうち昭和館は千本通下長者町上ルに所在し、千本通の一連の映画館のひとつではあるが「西陣京極」の定義からは50メートルほど外れた南に位置する。
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