文字の創作と施行初期
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『新唐書』あるいは『資治通鑑』などの史書によると、則天文字は武則天が考えたものではなく、甥の宗秦客に命じて作らせたもののようである。 当初公表されたのは12文字であり、「照」「天」「地」「日」「月」「星」「君」「臣」「載」「初」「年」「正」がそれぞれ「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」に改められた。このうち「」と「」の2文字が組み合わされて年号「載初」として使われた。制定当時、武則天は「改元載初赦文」で以下のように述べている。 (原文) 「……朕又聞之、人必有名者、所以吐情自紀、尊事天人。……朕今懷(懐)柔百神、對(対)揚上帝。三靈(霊)眷祐、萬國(万国)來(来)庭。宜膺正名之典、式敷行政之方。朕宜以曌爲(為)名。……思返上皇之化、佇移季葉之風、但習俗多時、良難頓改。特創製一十二字、率先百辟。上有依于古體(体)、下有改於新文、庶保可久之基、方表還淳之意。……」 (大意) 「……朕はまたこのように聞いている。人に必ず名があるのは、思いを述べて自らのことを記し、(それによって)尊敬の念をもって天と人とに仕えるからであると。……今、朕は神々を祀り安んじ、天帝の命に答えその心を民に広く知らしめた。天地人の三霊が朕を慈しんで恵みを垂れ、万国の使者が来朝してきている。(今こそ)正しき名分の決まりに応じて、政の道義をあまねく広めるのにふさわしい。(よって)朕は曌と名乗ることにする。……古の帝王の徳化に返ることを思い、末世の風習を改めようと望んではいるが、習俗は非常に長い時が経ってしまっているので、すぐに改めることは非常に難しい。(そこで)独自に文字12字を作り、諸侯百官に模範を示すことにする。(これは)古代の字体によりつつも、新たな文字に改めることで、長く続くべき基礎を保持することを願い、古の醇朴な精神に戻ることを表明することにほかならない。……」 これ以後、武則天は武曌と改名し、「曌」の字は避諱とし、他人が使用するのを禁じ、以前の「照」の文字も使用が禁止された。当時退位させられていた中宗の長男(武則天の孫)である李重照は、名を李重潤と改めさせられた。載初元年正月8日(西暦689年12月25日)、則天文字は正式に公布された。 なお『旧唐書』経籍志には「『字海』一百巻 大聖天后撰」、『新唐書』芸文志には「武后『字海』一百巻」の記述がある。
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