文人・能書家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:43 UTC 版)
文人・能書家としても知られる。 河野鉄兜に学んで詩才を発揮。明治4年(1871年)の旧雨社(漢詩文サークル)設立に際して同人となり、重野安繹、藤野海南らと交わる。 旧雨社の他の同人としては、松平春岳、岡鹿門、鷲津毅堂、阪谷朗廬、南摩綱紀(羽峯)、木原老谷、那珂通高(梧楼)、小山春山、川田甕江、中村正直(敬宇)、秋月種樹(樂山)、村山拙軒、萩原西疇、依田学海、信夫恕軒、亀谷省軒、天岸静堂、平田虚舟、青山清幽、岡本韋庵、島田篁村、股野琢(藍田)、日下勺水、小野湖山、岡松甕谷、座光寺半雲、四谷穂峰、小永井五八郎(小舟)・森春濤らがいた。 明治11年(1878年)の向山黄村・杉浦梅潭らの晩翠吟社開設とともに参じて、以後明治39年(1906年)の同社解散まで有力な同人として活躍。 晩翠吟社の他の同人としては、田邊新之助(松坡)・巌谷一六・古沢滋(介堂)・田辺太一(蓮舟)らがいた。 また、長崎で清末の学者である楊守敬と会見している。 能に造詣があり、能楽師の梅若実と近しい間柄であった。 佐賀県有田にある陶山神社には、香蘭社・深川製磁の創業者である深川栄左ヱ門(8代)を称える「深川君之碑」がある。この碑は題字を大隈重信、撰文を久米邦武、書を西岡逾明が担当している。なお、深川栄左ヱ門(8代)とは、有田焼の輸出に熱意を見せる栄左ヱ門に対して、同席した久米邦武と父西岡春益が大いに賛同したという縁がある。 他に書家として筆をとった石碑や墓碑として、鎮座五百年祭碑(有川大神宮)、大竹邨閘堰碑(二階堂三郎左衛門顕彰碑:近衛忠煕題額、大隈重信撰文、西岡逾明書)、石丸安世墓域内に立つ「経綸之碑」(大隈重信篆額、久米邦武撰文、西岡逾明書)、牟田口元則・美尾墓、小金原開墾碑(大木喬任篆額)、善光寺内にある「翠山先生岡本君碑」(牧野忠篤題額、城井寿彰撰文、西岡逾明書)等がある。
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