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岡本監輔

(岡本韋庵 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/01 03:17 UTC 版)

おかもと かんすけ

岡本 監輔
生誕 岡本文平
(1839-11-22) 1839年11月22日(天保10年10月17日)[1]
阿波国美馬郡
死没 1904年(明治37年)11月9日
東京市小石川区
国籍 日本
別名
  • 岡本韋庵
  • 岡本子博
著名な実績
  • 邦人初の樺太全土探検
  • 蝦夷地防衛の為の拓殖提言
肩書き
  • 箱館府権判事
  • 東京大学予備門教諭
  • 徳島県尋常中学校校長
栄誉 正五位
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岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)は徳島県出身の官吏であり漢学者、教育者。邦人として初めて樺太最北端に到達し全土を探査。蝦夷地防衛の重要性を提言し、そのための拓殖実現に向け尽力した。また窮北日誌ほか多くの本を著し、韋庵(いあん)[2]と號した。

生涯

生い立ち

阿波国美馬郡三谷村(後の徳島県美馬市穴吹町三島三谷)で農業の傍ら医業に携わる家に生まれる[注釈 1]。父は周平、母は須藤氏[1]。幼名は文平で字を子博[4]とし、幼い頃より読書を好んだ。1853年(嘉永6年)15歳の時父に連れられ徳島へ行くと、藩の儒学者・岩本贅庵の門下に入り同門の有井進斎と親しく交わる。讃岐国高松藩の藤川三渓のもとで食客となっていた1855年(安政2年)に薩哈隣(さがれん、樺太)の話を聞き、深く感じる所あって後の遠征の発端となる。1861年(文久元年)に江戸へ出て昌平黌の教官であった杉原心斎(晋斎)のもとで寄宿。この頃間宮林蔵が著した北蝦夷図説を読み、樺太を含む蝦夷地を実際に踏査した松浦武四郎を訪ねて実情を聞いた監輔[注釈 2]は、ロシアの進出に対する北方防衛の志を固めたとされる[3]。そんな監輔の熱意が人を動かし、講武所出役の竹垣竜太郎が箱館奉行支配組頭・平山謙二郎への紹介状を書いてくれた[5]

第一回樺太探検

1863年(文久3年)6月[注釈 3]、新潟から船に乗った監輔は箱館に到着。平山のもとに一時寄宿した後、平山より紹介された樺太クシュンコタン(久春古丹、後の大泊)在勤の調役、日野恵助に会うため宗谷から樺太南端の白主に渡った。同年8月上旬、クシュンコタンに着くと出張中であった日野を訪ね東海岸沿いのトンナイチャ(富内)へ。日野もまた監輔の熱意に感心し協力を約束。ここからサカエハマ(栄濱)へと北上し、ワーレ(輪荒)から山を越えて西海岸のクシュンナイ(久春内)に出る。さらに北へ進み、ウショロ(鵜城)、ナヤシ(名好)を経て、8月下旬には北緯50度線に近いシルトタンナイ(猿津)まで達する[5]。監輔は道中の地形や現地人の風俗・習慣、またロシア人の進出程度などを記録。真縫や久春内にはロシアの兵舎が建てられ、シルトタンナイにもロシア人が居住していることに危機感を募らせている。監輔は大陸に渡ってアムール川沿いも調査しようと考えたが、案内役を務めていた現地人が首を縦に振らず、冬に向かう時期でもあったので、再来を期して帰還となった。途中、樺太南部西岸のポントーでは真知床岬まで行った経験のある同心・川上甚三郎に会って情報を得、北海道石狩ではかつて久春内の開拓に尽力した調役の荒井金助に会い今後の協力について話す。そうして10月下旬に箱館に戻ると、再び平山謙二郎の屋敷に寄宿した[5]

第二回樺太探検

帰還後、箱館奉行の小出大和守秀実に会う機会を得て樺太在住を願い出る[注釈 4]。翌1864年(元治元年)4月、許可を得た監輔は箱館から漁場まで行く船に便乗して東海岸のアイロへ渡り、出稼ぎの現地人の船に乗せてもらって中部の邦人拠点であるシッカ(敷香)に入る。監輔は奉行所からの資金でシッカ川の畔に小屋を建てて越冬しようとしたが、無理してもし身体でも壊したら元も子もないと諭され、シララオロ(白浦)まで南下して年を越した。その間、現地人たちと深く交わって言葉や生活習慣、また犬ぞりの技術を学ぶ[注釈 5]。1865年(元治2年)には邦人未到であった北部探検の許可を得て、箱館奉行配下の足軽でシララオロ在勤の西村伝九郎と共に挑むこととなる[注釈 6]

大正時代の樺太全島地図

同年4月1日にクシュンコタンを出て南下。中知床岬を経て東海岸沿いを北上し、同月10日にシラオロロ着。近隣のワーレ(輪荒)で西村と共に準備を整えると、樺太アイヌ数人を雇い丸木船二艘に乗って5月10日ついに出立[7]。監輔たちは樺太の東側を北上するルートを取り、丸木船で海岸沿いを進んだ。途中鯨の群れを見かけるなどして5月14日シッカに到着。シッカは樺太で邦人拠点がある最北地。現地人から船を一艘買うと食料や煙草などの積荷を積み込み、すぐ東にあるタライカ湖(多来加湖)を数日かけて調査した。5月24日に湖を離れ、真知床岬(北知床岬)を目指して南下。同月28日にムシビ(蒸日)着。1808年(文化5年)に樺太一周を目指し南下していた間宮林蔵はここムシビで断念し引き返しているが、監輔たちはさらに進んで閏5月1日に真知床岬に到達した。その証として標木を立て、日付けや二人の名を記す[注釈 7]

同月5日に真知床岬を出て東海岸を北上するが、雷雨や濃霧などの悪天候に悩まされて船は中々進めず、ノシケシララで天候の回復を待ち7日間滞留した。同14日にやっとその地を離れる。再び海岸沿いに北上し、途中波のため船が転覆したが根気よく進み、ニブフの小集落などに度々遭遇[注釈 8]しつつ、北緯50度を越えて6月1日にヌエ(縫江)着。1854年(安政4年)に箱館奉行所役人の配下、栗山太平[注釈 9]が探索した際はこの辺りで引き返している。東海岸沿いに北上をさらに続け、チャエ(茶江)、鰭持歯[11]などを経て6月25日には邦人として初めて最北端のガオト岬(鵞小門岬)に到達した。一行はここに簡素な天照大神の仮社を造り、標木を2本立て「大日本領」「岡本文平建之」と記した。

その後は西海岸沿いを南下し、ウシカ(牛香)を経て7月7日にタムラオ(田村オ=こざと偏に烏)着。ここはアムール川河口の対岸で頻繁にロシア人がやって来るので、現地人の中にロシア語を話せる者がいたり、ロシア人相手に淫売する者もいた[12]。8日には間宮の到達最北地であるナニオー、さらに大陸との最狭部・ホコベイ(鉾部)へ[注釈 10]。ここから海峡を渡り前回果たせなかったアムール川の遡上調査をしようとしたが、やはり反対意見が多くついに断念した。その後19日にナヤシ、23日にウショロ、30日にクシュンナイを経て、そこから真縫までの山道を越え8月3日に出発点である東海岸のワーレへ帰着[14]。共に歩んだ西村[注釈 11]に別れを告げ、同月23日にクシュンコタンに戻るとこの地で冬を越した。

樺太全土探検以後

1866年(慶応2年)4月、海路が開くと宗谷に渡り、当時室蘭勤めとなっていた荒井金助を訪ねた。監輔の話を聞いた荒井は江戸へ上って献策すべきとし、将軍後見職・一橋慶喜の執事に紹介状を書き、旅費として10両を渡した。その後箱館に立ち寄った監輔は尊王攘夷派の志士・山東一郎と共に江戸へ。しかし長州征伐に失敗した幕府に北方を顧みる余裕は無く、将軍をはじめ要職の多くが京都滞在中であったため自らも京都へ上った[16]。同年京都の木屋町に坂本龍馬を訪ね、北方開発が急務であることを説いている[17]。1867年(慶応3年)には山東一郎と共に北門社を起こし、北蝦夷新志を著して蝦夷地開拓の世論喚起を目指したが、幕府衰亡の瀬戸際のため耳を貸す者は少なかった。1868年明治元年)に新政府が発足すると、監輔は箱館裁判所の内国事務局権判事に任命され箱館に在勤。その後、箱館府権判事となり樺太全島の事務を委任される[18]。翌年には開拓使判官。同年6月、部下と移民300余人を引き連れ樺太クシュンコタンに渡る。翌年には移民およそ400人を送って開拓や警備、そしてロシアとの交渉に当たった。しかしながら監輔の対露強硬姿勢は政府方針と合わず、1870年(明治3年)に辞任。翌年樺太を去ると開拓使御用係として1873年(明治6年)まで札幌[注釈 12]に滞在した[19]。1875年(明治8年)5月、千島・樺太交換条約が調印され、樺太が日本の手から離れたことで監輔のこれまでの努力は水泡に帰した。

1874年(明治7年)上海に渡るが、日清間の情勢悪く帰国。翌年再び渡航し、6月に北京、7月に満州奉天に入り、現地の文士と交流を深めた。1877年(明治10年)4月より翌年12月まで東洋新報を発行。1881年(明治14年)東京大学予備門の御用係、次いで教諭に任じられる。1886年(明治19年)第一高等中学校の和漢文教授を嘱託される。1891年(明治24年)の5月31日には同志と共に択捉島に渡って視察し、翌年千島義会を結成。第4回帝国議会に提出した千島列島拓殖の請願は貴族院において採択されたが、衆議院で否決されている[20]。1894年(明治27年)5月に徳島県尋常中学校校長[21]、1897年7月には台湾総督府国語学校教授に任ぜられるも翌年7月これを辞任。翌月東京に帰り中正義塾[注釈 13]を起こした。1898年(明治31年)11月、私立神田中学校校長を嘱託される。1900年11月清国に渡り、翌年にかけて上海や杭州、武昌を回る[23]

1903年(明治36年)2月、脳溢血で倒れ入院。両腕の自由を失ったが、翌年2月に日露戦争が起こると病身を忘れて戦報に聞き入ったという[23]。1904年(明治37年)11月9日[注釈 14]、東京市小石川区諏訪町の僑居で没する[24]。満64歳。その翌年1905年9月、日露間でポーツマス条約が調印され南樺太は再び日本領となった。監輔は港区西麻布長谷寺に眠っている。

家族

  • 妻・壽々(1930年2月9日没、行年80歳)
  • 嫡子・健(1919年11月11日没、行年34歳)
  • 長女・たけ(1896年2月6日没、行年14歳)[24]

著書

  • 『岡本氏自伝』NCID BB26944193
  • 『北蝦夷新志』北門社、1867年、NCID BA47294543
  • 『窮北日誌』全2巻、北門社、1871年、NCID BC02998934
  • 『北門急務』全3巻、北門社、1871年、NCID BA36799617
  • 『萬國史記』全20巻、内外兵事新聞局、1879年5月、NCID BA34597666
  • 『萬國通典』全12巻、集義館、1884年、NCID BN08292073
  • 『岡本子』全5巻、岡本活版所、1889年7月、NCID BA37529990
  • 『租志』全6巻、1890年7月、NCID BA40857342
  • 『千島見聞録』1892年5月、NCID BA45929451
  • 『大日本中興先覺志』全2巻、1901年、NCID BA70563544
  • 『日本維新人物志』全4巻、金港堂、1903年10月、NCID BA66500700

他多数有り。

脚注

注釈

  1. ^ 祖父の利之丞(忠利、號は東斎)は京阪に遊学し、頼山陽篠崎小竹と交友を持つ。帰郷後は外寇を憂いて建白した[3]
  2. ^ 文平を改め監輔を名乗ったのは明治維新後だが、ここでは読み易さを考慮してあえて監輔の表記で統一する。
  3. ^ 参照した「開拓の神々」[5]には西暦と和暦併記の後に何月との表記が多い。新暦に変更となる1872年以前のものは旧暦と思われるが未確認。
  4. ^ 監輔には通常の樺太在住者の倍、年間20両の手当が支給される事となった。これに感激した監輔は人の比較的多い樺太南部ではなく、幌内川上流に住まうことを計画。付近を探索して地図を作り、現地人を導いて漁場を造りたいと希望したところこれも許可された[5]
  5. ^ この時監輔は現地人と同じように犬の毛皮を着て小屋に寝泊まりした結果、寒さは深刻なものではないと大いに自信を付けた[5]
  6. ^ 監輔は当初から樺太全土探査の志を持っていたが、現地の幕臣に却下されたため樺太に滞在して番所(当時南樺太には5ヶ所の勤番所と各々の管内に詰所があった[6])の仕事を手伝いながら機を窺う。元治元年の夏にはオロッコニブフの村へ行き積極的に交わった。監輔は西村と連名で改めて箱館奉行所に樺太全土の探査を嘆願。その結果、元治2年の3月24日にクシュンコタンで北部探険の許可状を受け取る。西村はアイヌ語を理解し樺太内の探査も自ら行っていた人物で、監輔との同行を希望したとされる。維新後に西村利光と改名した[3]
  7. ^ 閏5月は旧暦において5月の後に挿し込まれる閏月。標木には「元治二年閏五月朔建之」「岡本文平」「西村伝九郎」などの文字を記した。付近で安政4年(1857年)に川上甚三郎が立てた標木も発見している。
  8. ^ ニブフはロシア人を恐れていたが、邦人と知ると近付いてきて歓迎された。彼らは煙草を好み、娘には美人が多いと監輔は記している[8]
  9. ^ 箱館奉行支配組頭、向山源太夫に付き従い樺太に滞在。1854年(安政4年)とその翌年、2度にわたり東海岸を探索し現地人に漁業を教えるなどした。また1856年春には久春内を出て西海岸を探査。ホロコタンで病身となったがなおも進み、ホコベイで暴風雨に遭いアムール川河口のニコライスクに漂着。病悪化しロシア人医師の治療を受けるが、その甲斐なく6月4日病没している[9]。同時期に樺太探査中だった足軽の倉内忠右衛門が現地へ行き遺品などを持ち帰った[10]
  10. ^ 立ち寄り地の地名付き樺太全図有り[13]
  11. ^ 西村伝九郎は後に「樺太巡回日記」を著してこの体験を遺した[15]
  12. ^ 開拓使は明治2年に設置される。当初は函館が本庁であったが、明治4年5月より新たに開設された札幌開拓使庁が本庁となった。
  13. ^ 住所は京橋区築地三丁目十一番地。勉学に身を入れず放蕩する学生の多さを憂いて設立。諸学校の通学生を寄宿させ父兄に代わって監督し、漢学や詩文などの教授も行った[22]
  14. ^ 本人の事績を記すため、死後10年以内に著された「岡本韋庵先生略伝」が11月9日没[23]としており信頼性も高いと思われるが、没日が11月11日となっている書籍も一部ある[24][25]

出典

  1. ^ a b 竹林貫一 編『漢学者伝記集成』関書院、1928年、1299頁。NDLJP:1118603/681 
  2. ^ 森銑三『明治人物逸話辞典』 上巻、東京堂出版、1965年、195頁。NDLJP:2978054/101 
  3. ^ a b c 日本文化 1959, p. 35.
  4. ^ 『日本現今人名辞典』(訂正3版)日本現今人名辞典発行所、1903年2月、を31頁。NDLJP:782773/185 
  5. ^ a b c d e f 幸前伸 編『開拓の神々:北海道開拓神社御祭神の偉績』北海道神宮社務所、1984年10月、231-235頁。NDLJP:9490922/125 
  6. ^ 『樺太沿革・行政史』全国樺太連盟、1978年6月、302-303頁。NDLJP:12185079/183 
  7. ^ 児童図書研究会 編『北の探検家たち』 北海道伝記文庫:第1巻、みやま書房、1958年9月、143-145頁。NDLJP:1653285/77 
  8. ^ 日本文化 1959, pp. 37–38.
  9. ^ 宮崎雷八『樺太史物語』桜華社、1944年、276-277頁。NDLJP:3436669/151 
  10. ^ 伊東多三郎『近世史の研究』 第3冊、吉川弘文館、1983年6月、116-117頁。NDLJP:12280651/68 
  11. ^ 玉貫光一『樺太博物誌』弘文堂書房、1944年、126-127頁。NDLJP:1064070/78 
  12. ^ 長沢和俊『日本人の冒険と探検』白水社、1973年、147-148頁。NDLJP:12208803/79 
  13. ^ 北海道総務部文書課 編『開拓につくした人びと』 第2巻、理論社、1966年、50頁。NDLJP:2990754/32 
  14. ^ 宮崎雷八『樺太史物語』桜華社、1944年、278頁。NDLJP:3436669/152 
  15. ^ 太田三郎『日露樺太外交戦』興文社、1941年、142頁。NDLJP:1045226/77 
  16. ^ 幸前伸 編『開拓の神々:北海道開拓神社御祭神の偉績』北海道神宮社務所、1984年10月、236-237頁。NDLJP:9490922/128 
  17. ^ 『坂本竜馬グラフティー』新人物往来社、1985年10月、139頁。NDLJP:12196352/72 
  18. ^ 『阿波美談』徳島県教育会、1937年、1-4頁。NDLJP:1223228/9 
  19. ^ 日本文化 1959, p. 40.
  20. ^ 藤井喬『阿波文学碑考』原田印刷出版、1974年、65-66頁。NDLJP:12501908/40 
  21. ^ 樺太開拓の志士・岡本監輔”. 美馬市. 2021年9月12日閲覧。
  22. ^ 『学窓余談』1 (1)、春陽堂、1898年9月、152頁。NDLJP:1852661/88 
  23. ^ a b c 『岡本韋庵先生略伝』韋庵会、1912年、21頁。NDLJP:949766/15 
  24. ^ a b c 『掃苔』10(12)、東京名墓顕彰会、1941年12月、349-350頁。NDLJP:2236825/2 
  25. ^ 関儀一郎、関義直 編『近世漢学者伝記著作大事典』井田書店、1943年、349-350頁。NDLJP:2129132/103 

参考文献


公職
先代
伊達行平
徳島県尋常中学校
1894年 - 1897年
次代
岸本依信



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