教育活動、著作活動にも関わる時期
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「ジェームズ・クレノフ」の記事における「教育活動、著作活動にも関わる時期」の解説
1960年代後半にはインストラクション活動を行うようになり、創作活動と教育活動の二足わらじの人生が始まる。また、スウェーデン国外にも招聘されるようになる。1966年、アメリカのロチェスター工科大学(RIT、在ニューヨーク州北部、オンタリオ湖岸)から留学していた教員のクレイグ・マッカートと昵懇になり、アメリカからも招聘を受けるようになる。1967年にはクラフト・ホライズンズ誌(アメリカ)にエッセイ「木材:その近しき神秘」が掲載される。1967-68年には、マルムステン・スクールでも教鞭を取る。それ以後はRITを拠点にして、活動の比重が次第にアメリカに移って行く。この時期のアメリカは、ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が拡大しており、その担い手であるヒッピー世代の若者たちが中心となってクレノフを受け容れて行くことになった。 1970年代に入ると、ボストン大学の工芸学科 (Boston University Program in Artisanry) の創設に一時的に関わり、教授職就任要請も受けたが、大学組織の窮屈さを感じ、辞退。また同じ頃、著書執筆の話が自然発生的に持ち上がる。出版の見通しがあった訳ではなかったが、RITのマッカートの強力な勧めと学生たちの要望があり、原稿を書き始める。新たに執筆活動も本格的に加わる形になった。自分で原稿を抱えて売り込みに行くなどの紆余曲折の末、バン・ノストランド・レインホールド社からの出版が決まり、1976年にA Cabinetmaker’s Notebookを刊行。自信などなかったが、予想外の大きな反響があり、翌1977年にはThe Fine Art of Cabinetmaking を、さらに1979年にThe Impractical Cabinetmakerを、1981年には作品写真集James Krenov Worker in Wood を精力的、集中的に連続出版する。この間、バン・ノストランド・レイホールド社のプロモーションによる講演ツアーも行っている。
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