救命ボートの航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:02 UTC 版)
「アーネスト・シャクルトン」の記事における「救命ボートの航海」の解説
詳細は「ジェイムズ・ケアード号の航海」を参照 エレファント島は人が住めない土地であり、一般の航路からも遠く離れていた。そのためシャクルトンは、救援が期待できる720海里先のサウスジョージア島の捕鯨基地まで、救命ボートで航海するリスクを負うことに決めた。航海には、20-フート (6.1 m)と小さいが最も頑丈な救命ボート、遠征隊のメインスポンサーにちなみ名付けられたジェイムズ・ケアード号を選んだ。船大工のハリー・マクニッシュが、へりを引き上げ、竜骨を強化、木と帆布で間に合わせの甲板を作り、塗料とアザラシの血で穴をふさいだ。シャクルトンは航海に5人の隊員を選んだ。エンデュアランス号の船長で航海術が信頼できるフランク・ワースリー、「同行を懇願した」トム・クリーン、強靭な2人の船員ジョン・ビンセント(英語版)とティモシー・マッカーシー(英語版)、そして船大工のマクニッシュである。シャクルトンは隊が氷の上で立ち往生している時にマクニッシュと対立していた。しかし先の彼の反抗を忘れていなかったものの、専門的な仕事における彼の能力は評価していた。 シャクルトンは食糧は4週間分で十分と判断していた。というのも、それまでにサウスジョージア島に着かなければ、ボートも人間も海の藻屑になるだろうと判っていたからだった。ジェームズ・ケアード号は1916年4月24日に出発した。続く15日間、嵐の海のなすがままに転覆の危険に襲われながら、南の海を航海した。5月8日、ワースリーの航海術のおかげでサウスジョージア島の断崖が視界に入ったが、暴風が上陸を妨げた。岩に激突する危険を避けるため、船は沖合で嵐を乗り切ることを余儀なくされた。なおこの嵐ではサウスジョージア島からブエノスアイレスへ向かっていた500トンの蒸気船が沈没していた。翌日、ついに無人の南岸に上陸することができた。少しの休息の後、シャクルトンは再び海に出て北岸の捕鯨基地を目指す危険を冒すのではなく、島の陸地横断を試みることを決断した。ノルウェーの捕鯨者が他の地点をスキーで横断したことはあったようだが、このルートを試した者は過去にはいなかった。上陸地点にマクニッシュ、ヴィンセント、マッカーシーを残して、シャクルトン、ワースリー、クリーンは32マイル (51 km)を36時間かけて歩き山岳地帯を越え、5月20日にストロムネス(英語版)の捕鯨基地にたどり着いた。 彼らの次にサウスジョージア島の横断に成功したのは、1955年10月のイギリスの探検家ダンカン・カース(英語版)であり、シャクルトンらと同じルートをたどった。彼らの偉業を称賛して、カースは「私には彼らがどのようにしてこれを成し遂げたのかわからない、やらねばならなかったとしても-50フィートのロープと大工の手斧を持った南極探検の英雄時代の3人の男たちが。」と述べている
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