救命掃海艇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 01:49 UTC 版)
鯨船鞘廻御用(くじらぶねさやまわしごよう) 東京市史稿 産業篇によれば江戸時代の江戸城下において洪水の度、江戸湾へ流出した河川荷役の資材や危険な塵芥の回収、被災者の迅速な捜索が望まれていた。徳川吉宗は鯨舟の速さに目を付け、江戸湾における救命掃海艇の役割を担わせた。これを「鯨船鞘廻御用」と呼び、当初は役人が行っていたが、その後幕府より委託され木場の材木問屋を中心に運営され、被災時だけでなく橋梁工事の普請なども行うようになった。この鯨船を格納する場所を鞘倉と呼び鯨船の細長い形状からそれを収める倉に鞘という言葉が使われたことが窺え、廻すという言葉も手配や業務を意味し「鯨船鞘廻御用」の名称になっている。 またこの救命掃海艇がどこの地域の鯨船を規範として作られたかは分かっていないが、紀州熊野太地(和歌山県太地町)の太地角右衛門頼成の覚書によれば紀州藩主であった主税守頼方(徳川吉宗)は1702年(元禄15年)と1710年(宝永7年)に紀州熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)で捕鯨を実施していて、この時に徳川吉宗は観覧もしている。また徳川吉宗の祖父である徳川頼宣が軍事訓練として大規模捕鯨を行っていることや、徳川吉宗が鯨山見(鯨漁の司令塔や鯨の探査の物見台)から狼煙(のろし)を使い、熊野から和歌山城まで外敵などの有事の連絡網としても利用しており、組織捕鯨に海上保安の軍事的役割を担わせていた。これらのことは徳川吉宗と捕鯨の深い結び付きを示している。
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