提訴まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:44 UTC 版)
1960年代から1970年代にかけて四日市公害など日本各地で大気汚染による公害が深刻な社会問題になった。工業地域では四日市ぜんそくなどで住民の健康被害が増加していた。1972年(昭和47年)7月24日の四日市公害裁判の勝訴は大気汚染を発生させた企業への損害賠償責任を認める判例となった。四日市公害裁判の勝訴が川崎公害裁判提訴へのきっかけとなった。1980年代に公害が発生する汚染地域だった三重県四日市市の環境は公害対策で改善されたが、川崎市は昭和末期になっても公害による大気汚染が現在進行形の問題となっていた。昭和30年代に産業の中心が石炭エネルギーから石油産業に転換すると川崎市に公害が発生した。昭和戦後期の川崎公害で川崎市の住民の健康被害が深刻になった。1960年代に入ると川崎市は公害条例を制定するなどの公害対策をおこない、住民も市民運動を起こした。1970年代には川崎市独自の公害病認定と医療費負担を実施するが、認定患者は1年目で316名にのぼった。特に弱者である高齢者や子供に被害が多く、小児ぜんそくの患者のために養護学校が作られた。また、公害患者を中心に公害病友の会を結成するなど、公害撲滅に向けた運動がおこなわれた。 しかし、昭和50年代になっても川崎市では大気中の窒素産物や粉じんが環境基準を上まわっていた。川崎市では年々新たな公害病患者が認定されてその数は5052人まで増加し、死者は昭和60年度の統計で787人となっていた。
※この「提訴まで」の解説は、「川崎公害」の解説の一部です。
「提訴まで」を含む「川崎公害」の記事については、「川崎公害」の概要を参照ください。
- 提訴までのページへのリンク