振り飛車党の減少
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 10:03 UTC 版)
藤井システムが広く知られるようになる前、居飛車側は対振り飛車戦において急戦に自信がない場合、左美濃・居飛車穴熊で玉を固く囲う戦法が有効とされていた。これらの囲いは振り飛車側の美濃囲いと堅さが同じかそれ以上で、しかも持久戦模様になると居飛車側からのみ仕掛けの権利があった。これに対して振り飛車側の有力な対策がなく、振り飛車を指す棋士が減少した。青野照市はこの頃の状況を、森下卓の言葉を引用して「矢倉の研究が忙しいから、振り飛車には穴熊と左美濃を交互にやってればいいんだ」と表現した。藤井自身も「居飛車党は矢倉の研究が忙しいので、振り飛車には左美濃と居飛車穴熊を交互にやっておけばいい、という言葉があったくらいだ」と当時を回顧し述懐している。 振り飛車(四間飛車)党であった藤井も居飛車穴熊と左美濃への対応には苦慮し、対左美濃戦において振り飛車側も銀冠を見せて、その囲いの途中(2七銀・3九玉・4七金・4九金の状態)で飛車を右翼に戻して左美濃の玉頭に殺到する構想を試したことがある(1995年全日本プロ将棋トーナメント(のちの朝日オープン将棋選手権)、藤井猛対行方尚史戦)。この将棋は河口俊彦の『新対局日誌』に取り上げられており、藤井はこの構想を林葉直子が指していたものだとしている。これは藤井システムが登場する前の将棋であるが、左美濃の玉頭を攻める構想は共通している。 △持ち駒 なし ▲持ち駒 なし参考局面1 △持ち駒 銀歩3 ▲持ち駒 飛角銀歩参考局面2 参考局面1は左美濃対四間飛車の一変化で、初出は1993年10月1日のJT将棋杯 日本シリーズ、先手郷田真隆対後手羽生善治戦である。後手羽生の△7三桂-7一玉型に、先手郷田が▲7五歩と仕掛けた有名な局面。△同歩とさせてから▲2四歩△同歩▲同角とし、以下の手順を示すと、△2二飛▲3三角成△2八飛成▲1一馬△7四飛▲7六歩△同歩▲同銀△7五歩▲同銀△同飛▲7六歩△7四飛▲7五香△同飛▲同歩△2九竜▲7四歩△7五桂▲7七玉△8七銀▲6八玉△7八銀成▲同金△8九竜▲8三銀以下、先手の郷田が勝つ。長手数示しても、一連の手順はほぼ変化の余地がないとされ、この一局は局後の検討でも、その後の研究でも、先手勝ちと結論づけられたというが「この結論を覆さない限り、後手番で左美濃相手に指す手がない」と藤井は振り返っており、この将棋を詰みまで研究した結果、1年後の94年10月2日に新手を現した。棋聖戦の先手室岡克彦対藤井猛戦で、藤井は前記手順の△8九竜に代えて研究手△7六香と打ち(参考局面2)、以下▲7七桂△6九銀▲7三歩成△同銀▲5五馬△7二歩▲7四桂△7八銀成▲5七玉△8三金以下、後手藤井が勝っている。最後の△8三金も藤井の研究手で、その後、図の局面は公式戦で現れていない。 この一局を島朗九段が当時の将棋雑誌 に「藤井君が指す四間飛車は藤井システムといえる」と書いた。藤井システムという言葉が現れた瞬間として知られる。その後藤井システム一号局とされる後述の藤井猛対井上慶太戦、95年12月22日の順位戦B級2組につづく。 △持ち駒 なし ▲持ち駒 なし対左美濃の藤井システム
※この「振り飛車党の減少」の解説は、「藤井システム」の解説の一部です。
「振り飛車党の減少」を含む「藤井システム」の記事については、「藤井システム」の概要を参照ください。
- 振り飛車党の減少のページへのリンク