拠点の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:04 UTC 版)
中世には岩木川河口の十三湊があった「西北五地区」が貿易(国際・国内)で活況を呈したが、南部氏の侵入により衰退した。 江戸時代には弘前城が置かれ城下町が開かれた弘前のある「中弘南黒地区」が中心になった。日本海側の鰺ヶ沢・深浦は北前船の寄港地となって栄えた。特に、鰺ヶ沢は津軽産米の積出港として、最も重要視された。 明治時代になり、廃藩置県により旧藩を引き継いだ弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県(斗南藩)、七戸県(七戸藩)、八戸県(八戸藩)と北海道渡島半島の館県(館藩)の6県が合併し、弘前県が成立した。この際に県庁は弘前に置かれたが、初代県大参事の野田豁通が県庁を現在の青森市に移転し、県名を青森県とすることを決定した。さらに本州の鉄道の北のターミナル、および北海道との窓口となって青函連絡船が就航するようになったため、青森が存在感を増すことになった。 その後、弘前市は陸軍第八師団と旧制弘前高校を擁した軍事・学園都市として、1889年(明治22年)の統計では、弘前市は人口30,487人で全国29位、東北地方では仙台市、盛岡市に次いで3位だった。 戦後、日本軍の解体により第八師団も解散したが、弘前大学が新設されたことから、弘前市は引き続き学園都市としての性格を保ち続けている。 白神山地の世界遺産登録を期に、弘前ねぷた・平川ねぷた・黒石ねぷた・五所川原立佞武多をはじめとするねぷたなどの文化や雄大な自然を有する津軽地方は、観光地として集客能力を増している。
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