戦時中・敗戦後のダブリン総領事
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「別府節弥」の記事における「戦時中・敗戦後のダブリン総領事」の解説
1941年の開戦に先立つ1940年、英国のリバプール領事であった別府は、イースター蜂起をきっかけに英国から分離していたアイルランドに民家を借りて領事館を開設し、早くから日本とアイルランドの関係深化に努めた。第二次世界大戦中、中立国であったアイルランドでは諜報合戦が繰り広げられており、日本側はわずかな人員(領事と副領事のみ)であったにもかかわらず、十分に機能したというのは別府の功績によるものが大きい。当時アイルランドは英国と敵対しており、1942年2月15日に英国軍が日本軍に降伏したシンガポール陥落の際には、反英活動のリーダーであったトム・マリンズが食料を提供し、駐ダブリン日本領事館にて祝賀会が行われたという。 終戦時の調整においても別府は重要な役割を果たしており、1945年8月8日にジョセフ・グルー米国務長官代理の「日本人が意図すれば戦争は明日にも終わる」との発言をブレナン駐アイルランド米国大使から聞き出して外務省へ報告し、引き続いて10日にはアイルランド外務次官より、グルー国務長官代理が「皇室存続の日本の要求を米英は受け入れる」との見解を示しているという情報を入手し日本へ打電している。この「国体護持の確証」が14日の御前会議の聖断の根拠の一つとなった可能性があるとされている。これらのやり取りの電報は英国政府暗号学校により傍受解読されており、国立公文書館に保管されている。 敗戦後、別府は領事館内の資産や文書の引き渡しを求める連合国側に対して、アイルランド政府の陰からのサポートを受けながら、機密文書を処分する等の抵抗を三年間続け、1948年の帰国後にSCAPに拘束された。 司馬遼太郎は『街道をゆく 愛蘭土(アイルランド)紀行II』で別府のことを「大戦下の籠城者」と表現した。
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