戦中期の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
ふみ子と夫、中城博との結婚生活は札幌市にあった鉄道省工事事務所官舎で始まった。戦時体制下、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしていたふみ子は結婚はしたものの、まもなく深い絶望感に囚われるようになる。東京家政学院時代の親友に「私たちの結婚は不幸から出発してゐるのです」と、手紙に書いている。「私は理想主義ですし、夫は現実的でありすぎ」とも書いている。夫に離婚を切り出すものの承知してくれない。ふみ子は九州の東京家政学院時代の親友宅に逃げ出そうと計画するが、体調を崩してしまう。体調不良の原因は妊娠であった。妊娠後も心の葛藤は続いたが、結局、離婚や夜逃げは断念することとなった。 1943年(昭和18年)1月、夫、中城博は室蘭に転勤となり、5月8日には長男、孝が生まれる。翌1944年(昭和19年)2月、夫、博は今度は函館五稜郭出張所に転勤となり、4月には五稜郭出張所所長に就任した。この頃発行された帯広高等女学校の同窓生便りにふみ子も短文を寄稿しているが、その中で「家庭に入って歌も随分作りましたけど、発表禁止でございます」と書いている。ふみ子は夫から短歌の発表を止められていたと考えられる。五稜郭出張所所長に就任するなど、夫、中城博は出世コースを歩んでおり、この頃は夫婦関係も一応安定していたと考えられる。戦時中のふみ子は国防婦人会の班長を務め、班の事務をそつなくこなし、勤労奉仕にも積極的に参加していたという。しかしまもなく夫婦関係に修復し難い亀裂が入っていくことになる。 夫の転勤に伴い函館での生活を始めたふみ子は、第2子を妊娠していた。長男の誕生時は母のきくゑが室蘭へやって来てお産の説代をしたが、今度はきくゑが腎臓の手術後で函館まで行けなかったため、ふみ子は帯広の実家で里帰り出産をすることになった。8月25日、ふみ子は次男、徹を出産する。次男誕生の直後の27日、夫、博の母が急逝する。後に中城博が発表した手記によれば、夫としては実家に帰っていて母の死を看取ることが無かった妻に大きな不満を抱いたという。そして生まれたばかりの次男の徹は病弱であり、11月8日に亡くなってしまう。 そしてこの頃から夫、中城博の生活が乱れ始める。ふみ子が里帰り出産のため帯広に行っている間に、函館の土建業者が工事請負に便宜を図ってもらう見返りに、若い芸者を世話したと伝えられている。話の内容的に実態ははっきりとはしないものの、周囲の証言からこの頃から夫の生活が乱れ始めたと考えられる。
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