戦中戦後の苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 06:37 UTC 版)
「サンフランシスコ・シャビエル肺結核療養所」の記事における「戦中戦後の苦難」の解説
1942年1月、ブラジル政府は枢軸国と国交断絶。在ブラジル日本国大使館や在サンパウロ日本国総領事館等の在外公館が閉鎖された。同年4月18日、療養所はブラジル政府に接収され、サナトリオ同仁会はサナトリオ・サンフランシスコ・シャビエルと改称され、二代目支配人だった日本人の石井恒は免職となり、代わりにブラジル人のネルソン・ボルジェスが就任した。それまで大半を占めていた日本人職員は僅か3名を残し解職された。戦時中、敵性国人となった日本人には様々な制限があった: 療養所の内外を問わず、日本語での会話は禁止された(密告により警察に拘引された患者もいた) 患者宛の封筒は無断で開封され、金銭は没収された 職員が公務で外出する際にも、警察の通行許可証が必要とされ、監視も付けられた 日本国の在外公館が引き上げてからは療養所への助成金がなくなり経営状態が悪化した。この苦境を覆すべく、療養所は市と提携し、約2年間、市の委託施設となった。しかし、委託費の支払いが悪く、経営問題を解決するにはいたらなかった。 また、臣道連盟から協力を要請する脅迫状が送られてきた。そのため、非合法活動を行っていた連盟メンバーを追っていた警察の捜査を受けることとなった。療友会も標的にされ、約2~3ヶ月ほどカンポス・ド・ジョルドン市の勝ち組の本部にされた。 1948年、ストレプトマイシンの開発で肺結核の治療が画期的に進歩したが、治療費を払えない患者も増え、7~8割の者が治療半ばで退院するようになった。療養所はサンタクルス病院(旧・日本病院)の付属であったが、病院の経営母体であるサンタクルス慈善協会からの実質的な経済的援助はなく、患者の入院費頼りの経営を余儀なくされていた。
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