成長と即位・受戒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:35 UTC 版)
「ダライ・ラマ8世」の記事における「成長と即位・受戒」の解説
幼いジャムペル・ギャツォが会話できるようになるとすぐ「3歳になったらラサに行く」と周囲に語ったと言われている。ラサはダライラマ政権の首都でチベット仏教の聖地であった。次第にチベット全体が、この子を正統なダライ・ラマ8世であると確信するようになった。ダルクパ・タイェは、多数の僧侶を伴ってラサを訪れ、当時2歳であったその子をシガツェのタシルンポ寺に連れて行き、認定式を執り行った。セラ寺・ガンデン寺・デプン寺の代表および国の神託僧(クテン)によって認定がなされ、タシルンポ寺にあったパンチェン・ラマ6世は、その子に「ロサン・テンペー・ワンチュク・ジャムペル・ギャムツォ」の法名を正式に授けた。 1762年、4歳となったジャムペル・ギャツォは臣下とともにラサに往き、ポタラ宮で正式にダライ・ラマ8世として即位した。即位式を主催したのは、ダライ・ラマ7世没後に新たに設けられた名代職(ギェルツァプ)に任命されたテンギューリン寺のテモ活仏ジャムペル・デレクであった。1765年、ジャムペル・ギャツォ少年はパンチェン・ラマ6世から沙弥戒を受け、1777年に満19歳で具足戒を受けた。 ダライ・ラマ8世が幼少の間、政治情勢は比較的穏やかであった。清の乾隆帝は1750年代後半にイリ地方を本拠とするジュンガル部を大破し、タリム盆地の征服の乗り出したためチベットへの監視を強めることはなかった。また、モンゴル人の脅威も遠のいたので、乾隆帝は摂政の任命やダライ・ラマ認定もこころよく承認した。清から派遣された駐蔵大臣(アンバン)の官吏としての生活も快適なものであった。
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