悪法は法か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 02:16 UTC 版)
歴史的沿革のうえでは、慣習法は成文の制定法に先立つものであるから、両者に共通する法解釈の根本問題は慣習法より生まれた。 すなわち、原初社会においては、人々は例えば正義の女神テミスの名を冠した神託裁判によってなされたというだけでその結果を受け入れるのが普通であったが、社会の発達にしたがってその思想は次第に変化し、公平さを求めて次第に神託そのものも同種の事件は同様に扱うようになっていった。故に、そのような神託裁判もまた慣習法の起源もしくはその一種であると考えられている。 法的安定性の重視を端的に表す有名な法格言、「悪(酷)法もまた法なり」も、本来は古代ローマにおいて制定法ではなく慣習法についていわれたものである。慣習法は民衆一般より自然的に生じるものであるから、たとえ他民族からみてそれが過酷に過ぎるものであっても、当該社会では通常のこととして認識されるからである。一方、制定法においては、これとは逆に人為的に社会を改善しようとするものであるから、「至厳の法は最大の不正義」(悪法は法にあらず)という法律格言がかなり古くから行われていたことはキケロの著書中に確認することができ、この格言はイギリスの衡平法裁判の起源となるなど、ヨーロッパ各国に継承されたのであるが、後の18世紀末から19世紀の立法権過信時代には、かえって正反対の「悪法も法なり」が制定法について承認され、道徳と法律の厳格な峻別が主張されるに及んだのである。その結果として現れたのは、裁判官の権力縮小と、慣習法の効力否認であった。 つまり、法解釈においては、悪法もまた法であるとのテーゼに対し、これを肯定的に解して客観的な成文法のみをその対象とすることで司法を拘束し、もっぱら立法によってその是正を図ろうとする立場と、それとは逆に、司法を信頼して成文法以外に広くその対象を求めることによって悪法の不備を是正しようとする立場との二大潮流がありうることになる。
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