悪書追放運動のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:24 UTC 版)
「悪書追放運動」の記事における「悪書追放運動のその後」の解説
1955年(昭和30年)の悪書追放運動が焚書までエスカレートしてから、その後どのように収束していったのかを明瞭に書いた文献は見当たらず、明快に説明することは難しい。ただ、この悪書追放運動は、その後も止むことなく、1950年代の後半まで続いた。 1955年(昭和30年)の悪書追放運動の直接的な所産として、北海道(1955年)、福岡県(1956年)、大阪府(1956年)に青少年保護育成条例が制定され、有害図書が規制された。 悪書追放運動との直接的関連性はないが、1959年(昭和34年)には文部省が図書選定制度を導入している。 1959年、佐藤まさあきの貸本劇画が主人公がアウトローであり暴力を肯定的に描くことを理由に山梨県の貸本組合で不買運動の対象に指定される。この動きは群馬県、埼玉県にも波及し批判をおそれた貸本漫画出版社が同調、佐藤は一時期、漫画家としての仕事を完全に失う。漫画家廃業を考えた佐藤であったが、貸本漫画出版に新規参入してきた高橋書店がそれらの事情を知らずに原稿執筆を依頼、九死に一生を得る。 1963年、出版社が共同で出版倫理協議会をたて、自主規制を行う事に決めた。 1966年、東京都の巣鴨母の会と巣鴨警察署が白ポスト運動を開始し、全国に有害図書廃棄用ポストが設置されていった 。 一時クールダウンした漫画論争であったが1968年の永井豪『ハレンチ学園』の開始によって再び激化。1970年には手塚治虫も『やけっぱちのマリア』を出し論争に参戦した。
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