後援者カッツとロンドンでの陰謀
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「ジョセフ・ダドリー」の記事における「後援者カッツとロンドンでの陰謀」の解説
1693年にイングランドに渡ったダドリーは、ニューイングランドでの官職奪還のため、一連の工作に乗り出した。正式に聖公会の信者となることで、ロンドンで、体制側の政治家に宗教面での仲間入りを果たしたのである。ダドリーは初代カッツ男爵ジョン・カッツという後援者を得た。カッツはワイト島の総督を務めており、副総督としてダドリーを現地に送り込んだ。ダドリーとカッツは、政治の面で互いに援助しあった。カッツはロンドンでダドリーの利害を代弁し、一方ダドリーはワイト島でカッツのための仕事を推し進めた。記録によれば、ダドリーの主な仕事は、イングランド議会選挙の進行過程に小細工をして、ワイト島内の各選挙区でカッツが推薦した候補が当選するように取り計らうことだった。この工作のためにカッツはワイト島では非常に嫌われていたが、1707年に死ぬまで総督の座に居座った。ダドリーは資金難のカッツを援助しようとして、カッツの義父と植民地で使用する貨幣を鋳造する許可を得ようとしたが、失敗に終わった。 ダドリーの工作の主な目的は、マサチューセッツ直轄植民地の総督、サー・ウィリアム・フィップスの職を解くことだった、これに関しては、植民地代表部の目を逃れて行うのは不可能だった。フィップスの統治はマサチューセッツでは人気がなく、政敵たちによる様々な告発に応じるため、イングランドに召還された 。フィップスが本国に帰すべき関税収入を横領していた、とする誇大な内容の告発をダドリーが流したことから、フィップスはイングランドに到着してすぐに拘留された。1695年の2月、告発関連の審問が行われる前にフィップスは死に、ダドリーは、自分が次の総督になれると楽観していた。 この時、ニューヨークとマサチューセッツのダドリーの政敵たちは、力を合わせてダドリーの総督就任を拒んだ。ジェイコブ・ライスラーの息子が、この時ロンドンにいて、父親の資産の権利剥奪を破棄すべく働きかけていた。マサチューセッツ代表部のコンスタンティン・フィップスの援助により、資産を戻すための法案が議会に提出されていた。法案の討議ではライスラーの裁判の再吟味が行われ、ダドリーはこの討議への出席と、自己弁護を余儀なくさせられた。その後、フィップスはコットン・マザーに「ダドリーの総督就任については多くは語られなかった」という手紙を送っている。フィップスの後継として総督に就任したのは、初代ベロモント伯爵リチャード・クートだった。 カッツは引き続きダドリーの便宜を図るために活動しており、1701年のイングランド議会下院の選挙に、彼をニュータウン選挙区から出馬させた。このことにより、ロンドンにおける、ダドリーの政治人脈が広がる可能性が出て来た。ダドリーは、とにかく一時的にせよ、政治ではフィップスやマザーよりも優位に立った。1701年にベロモントが死去すると、ダドリーはマサチューセッツ総督就任の裏工作を始めた。今度はダドリーは成功し、1702年4月1日、マサチューセッツとニューハンプシャーの総督の委任状をアン女王から受け取った。
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