引退〜マーリンズ監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:37 UTC 版)
「ジョー・ジラルディ」の記事における「引退〜マーリンズ監督」の解説
2004年にヤンキースのスプリングトレーニングに招待選手として参加し、メジャー2年目の松井秀喜らと共にプレーするもメジャーに昇格できず、シーズンを前に引退。ヤンキース傘下のケーブルテレビ局YESで解説者となり、主にヤンキース戦の解説を務めた。 2005年、フロリダ・マーリンズからの「将来的には監督への就任を前提とした、ベンチコーチ契約」を蹴り、ジョー・トーリの下でヤンキースのベンチコーチを1年間務めた。 2006年にはジャック・マキーオンに代わり、マーリンズの監督に就任。監督してのジラルディが最初に行ったことは、選手への「髭禁止令」であった。 主力選手のほとんどをトレードやFAで放出する、いわゆる「ファイヤーセール」が断行された後の若手主体のチームで指揮を執り、結果は78勝84敗の4位だったものの一時はナショナルリーグのワイルドカード争いをするという健闘を見せた。ちなみにこの年のマーリンズの選手総年俸額は1400万ドル程度であり、幾人かのメジャーのスター選手の年俸1年分にも満たなかった。 しかし、ジラルディとマーリンズのオーナーであったジェフリー・ローリアとの関係は良好ではなかった。8月初旬におこなわれたとある試合では、審判に対する暴言を繰り返していたローリアを、ジラルディとベンチコーチのゲイリー・タックが窘めたことがきっかけで、大喧嘩が発生している。 結局10月3日にジラルディは解雇される。皮肉なことに、ジラルディの采配は評価されており、同年のオフにはナ・リーグの最優秀監督賞に選ばれている。彼がフリーになったことで、多くの球団はジラルディへの興味を示した。ヤンキースは、2006年のALDSで敗退したトーリ監督の後任としてジラルディを検討していたが、結局トーリが残留したことで、打ち消しとなった。また、カブスもジラルディをダスティ・ベーカー監督の後任候補と考えており、実際面接にまで至ったが、結局ルー・ピネラが就任した。ワシントン・ナショナルズからも監督職のオファーがあったが断り、2007年には再びYESで解説者を務めた。同年7月にボルチモア・オリオールズがサム・パラーゾ監督を解雇したとき、ジラルディは監督職のオファーを受けたが、固辞している。
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