引退および死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:23 UTC 版)
シュルツは1881年に政界を引退し、ニューヨーク市に転居した。1881年の夏から1883年の秋にかけて、『ニューヨーク・イブニング・ポスト』紙の編集長と共同経営者の一人となった。1884年、共和党の大統領候補ジェイムズ・G・ブレインの指名に反対する独立した運動の指導者となり、結果的にグロバー・クリーブランドの選出に貢献した。1888年から1892年、ハンブルク・アメリカン汽船会社のアメリカ側代表者を務めた。1892年、ジョージ・ウィリアム・カーティスの後を受けて、国家公務員改革連盟の会長になり、1901年までその職にあった。1892年にはやはりカーティスの後を受けて、『ハーパーズ・ウィークリー』紙の論説委員になり、1898年まで務めて選挙人団の改革を積極的に支えた。1895年、ニューヨーク市の反タマニー・ホール選挙協力のために発言した。1896年の大統領選挙には、ウィリアム・ジェニングズ・ブライアンに反対し、健全な金のために発言し、共和党の庇護の下には入らなかった。4年後、1900年の大統領選挙になると、今度は反帝国主義のためにブライアンを支持し、アメリカ反帝国主義連盟の一員にもなった。1904年の大統領選挙では民主党候補者のアルトン・B・パーカーを支持した。シュルツはニューヨーク州ジョージ湖のノースウエスト湾にある夏のコテージで生活したが、これは親友のエイブラハム・ジャコビが建てたものだった。 シュルツはその人生を通じて、意見を表明することに躊躇したことはなかった。政治家仲間の間ではその数多い辛らつな文書のためにリンカーンやジョンソンのような大統領と並んで一目置かれた。強い言葉による演説や論説、および深く保持された確信のために支持者にとっては英雄であったが、批判者からは広く嫌われた。移民社会とは強い繋がりがあった。1893年のシカゴ万国博覧会ではドイツ系移民に向かって、いかにアメリカの社会に順応すると予測しているかを次のように語った。 私は常に健康なアメリカ化に賛成してきたが、それは我々ドイツの伝統を完全に否定することを意味しない。我々の性格はアメリカ的なものの最善のものを取り入れ、ドイツ的なものの最善なものと結びつけることである。そうすることで、我々はアメリカの人々とその文明に最善を尽くすことができる。 シュルツは多くの著作をものにした。その中には、1巻の演説集(1865年)、ヘンリー・クレイの秀逸な伝記(1887年)、リンカーンに関する随筆(1899年)、チャールズ・サムナーに関する随筆(死後の1951年に出版)、およびシュルツ自身の『回顧録』(死後の1907年から1909年に出版)がある。後半生では備忘録も書いていた。 1906年5月14日にニューヨーク市で死去し、スリーピーホロー墓地に埋葬された。
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