式内佐志能神社
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「佐志能神社 (石岡市染谷)」の記事における「式内佐志能神社」の解説
式内佐志能神社は、『続日本後紀』の巻六、承和4年3月戊子25日(837年)の記述に「常陸國新治郡佐志能神。眞壁郡大國玉神。並預官社。以比年特有靈驗也」とあり、大国玉神社とともに官社に預かった。また「延喜式神名帳」に新治郡三座(大一座小二座)のうち小社「佐志能神社」として記載された。この式内佐志能神社の論社には石岡市染谷、石岡市村上、石岡市柿岡、笠間市笠間の4社があり、いずれも佐志能神社を称している。 社伝では、染谷社は式内佐志能神社であり、豊城入彦命の玄孫荒田別命の子孫佐白公(佐自怒公)が、新治国造に任ぜられた際、祖神を祀るために創祀したという。なお新治国造の祖は比奈良珠命であり、佐自怒公が国造となった記録はない。式内佐志能神社の主神を豊城入彦命とする考察は、青山延于の説として『新編常陸国誌』に記録されており、広く伝播している。現在の佐志能神社4社は、すべて豊城入彦命を主神としている。龍神社を式内佐志能神社に比定する見解については、『大日本地名辞書』は「赤水の常陸考に、龍神を佐志能神と誤る」と、長久保赤水が出所であると批判的に記録している。 往古の石岡市域は新治郡ではなく茨城郡に属するため(新治郡と茨城郡は新旧郡域が大きく異なる)、『府県郷社明治神社誌料』に「古来学者茨城郡上市毛村字佐白山鎮座村社佐志能神社に擬し、未だ当社を以て式社とするを聞かず」とあるように、古くから笠間市笠間の佐志能神社が確説とされてきた。祭神の項に列挙した地誌においても、式内佐志能神社とする見解が存在することに言及しつつ、これを否定するという構成を採るものがある。 一方、同じく『府県郷社明治神社誌料』は「新治茨城の二郡は相接し、佐代公茨城造亦同祖たり、又石岡は元と国府ありし所、總社ありし所、此の間何等かの事実の伏在するが如し、古来の社伝今遽(にわ)かに捨てがたし」とも付記している。西北の石岡市柿岡に、古来から豊城入彦命の墳墓と伝わる「丸山古墳」があり、南面に柿岡佐志能神社が鎮座していることも「何等かの事実の伏在するが如し」の一材料となる。
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式内佐志能神社
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「佐志能神社 (笠間市)」の記事における「式内佐志能神社」の解説
佐志能神社は、続日本後紀の巻六、承和4年3月戊子25日(837年)の記述に「常陸國新治郡佐志能神。眞壁郡大國玉神。並預官社。以比年特有靈驗也」とあり、「佐志能神」として「大国玉神」(桜川市)とともに官社に預かった。さらに延長5年(927年)、延喜式神名帳に常陸国の新治郡大一座小二座のうち小社「佐志能神社」として記載された。 現在、式内佐志能神社の論社には笠間市笠間の佐志能神社、石岡市柿岡の佐志能神社、石岡市染谷の佐志能神社、石岡市村上の佐志能神社の4社がある。石岡市内の3社は往古の新治郡ではなく、茨城郡に属することから、比定社としては古くから笠間が有力とされてきた。ちなみに、石岡市柿岡の佐志能神社は豊城入彦命の奥津城(墳墓)との伝承がある「丸山古墳」に鎮座している。丸山古墳は近世の発掘調査によって古墳時代前期という古い築造であることが判明した経緯を持つ。文献上の証拠はないが、豊城入彦命の伝承とともにある神社である。石岡市染谷および村上の佐志能神社は国史見在社(日本三代実録の村上神)で、式内佐志能神社と並ぶ古社であり、近世は龍神宮とも呼ばれていた。
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