建部大垣とは? わかりやすく解説

建部大垣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:51 UTC 版)

建部氏」の記事における「建部大垣」の解説

『続日本紀』神護景雲2年768年鑑真入滅から5年目東大寺大仏殿竣工から10年目大仏造立からは23年目に当たる年)に全国から9人、その内信濃国からは水内郡刑部麻呂友情)と倉橋部広人(税の肩代わり)、伊那郡他田舎人千世売節婦)、更級郡の「建部大垣」の4人が朝廷から褒美受けた記述がある。この内の建部大垣は、褒賞理由について「人となり恭順、親に孝あり」とある。 この180年後の『大和物語』(950年)に信濃国更級郡にある姨捨山棄老伝説紹介されることとなった。この建部大垣褒賞噂話に、物知り(あるいは僧か)が古代インド仏典雑宝蔵経」の棄老戒める説話付け加えて伝承各所広まり定着して行ったものと考えられる[要出典]。 これ以降姨捨伝説は『更級日記』(1059年)や『今昔物語集』1150年)、謡曲姨捨1368年)、『更級紀行』(1688年)、『楢山節考』1956年)など文学世界にたびたび取り上げられてきた。だが、そこにおいては親孝行による受賞事実よりも、話の尾ひれであったはずの棄老についてイメージの方が強調されてしまったようである。 大垣信濃国更級郡の人とまでは記述にあるが、その住地については千曲市八幡(旧・更級郡八幡村武水別神社周辺)と長野市信州新町竹房(旧・更級郡竹房武富神社周辺)であるとする二説があって詳らかではない。しかし後者が一応の定説となっている。そして武冨佐神社は建部大垣の古墳の上建てられているのだとも伝えられていた。近年の発掘調査では現在は社殿北側位置している古墳築造時期大垣時代よりおよそ150年ほど遡るとされて伝説否定され格好である。この他にも千曲市上山田(旧・更級郡上山田町)波閇科神社周辺候補地挙げる説もある。ここも日本武尊関連する神社とされる。9人の受賞者には大垣の他にも孝養理由とする者はいて武蔵国入間郡の人で矢田部黒麻呂この人宝亀3年受賞で戸の揺を免ず)、対馬上県郡の人で高橋連波采女貞婦孝養)、備後国葦田郡の人で網引公金村甲斐国八代郡の人で小谷五百依の名が見られる。残る1人石見国美濃郡の人で額田部蘇提売貞婦社会貢献などが受賞理由となっており彼女は、その屋敷跡というのが伝えられ高橋連波采女も墓と言われる所在知られている。また網引地名示されているが他は推定の域を出ない

※この「建部大垣」の解説は、「建部氏」の解説の一部です。
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