建部大垣
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『続日本紀』の神護景雲2年(768年:鑑真入滅から5年目、東大寺大仏殿竣工から10年目、大仏造立からは23年目に当たる年)に全国から9人、その内信濃国からは水内郡の刑部千麻呂(友情)と倉橋部広人(税の肩代わり)、伊那郡の他田舎人千世売(節婦)、更級郡の「建部大垣」の4人が朝廷から褒美を受けた記述がある。この内の建部大垣は、褒賞の理由について「人となり恭順、親に孝あり」とある。 この180年後の『大和物語』(950年)に信濃国更級郡にある姨捨山の棄老伝説が紹介されることとなった。この建部大垣褒賞の噂話に、物知り(あるいは僧か)が古代インドの仏典「雑宝蔵経」の棄老を戒める説話を付け加えて伝承が各所に広まり、定着して行ったものと考えられる[要出典]。 これ以降、姨捨伝説は『更級日記』(1059年)や『今昔物語集』(1150年)、謡曲「姨捨」1368年)、『更級紀行』(1688年)、『楢山節考』(1956年)など文学の世界にたびたび取り上げられてきた。だが、そこにおいては親孝行による受賞の事実よりも、話の尾ひれであったはずの棄老についてのイメージの方が強調されてしまったようである。 大垣は信濃国更級郡の人とまでは記述にあるが、その住地については千曲市八幡(旧・更級郡八幡村武水別神社周辺)と長野市信州新町竹房(旧・更級郡竹房村武富佐神社周辺)であるとする二説があって詳らかではない。しかし後者が一応の定説となっている。そして武冨佐神社は建部大垣の古墳の上に建てられているのだとも伝えられていた。近年の発掘調査では現在は社殿の北側に位置している古墳の築造時期は大垣の時代よりおよそ150年ほど遡るとされて伝説は否定された格好である。この他にも千曲市上山田(旧・更級郡上山田町)波閇科神社周辺を候補地に挙げる説もある。ここも日本武尊に関連する神社とされる。9人の受賞者には大垣の他にも孝養を理由とする者はいて武蔵国入間郡の人で矢田部黒麻呂(この人は宝亀3年の受賞で戸の揺を免ず)、対馬嶋上県郡の人で高橋連波自采女(貞婦・孝養)、備後国葦田郡の人で網引公金村、甲斐国八代郡の人で小谷直五百依の名が見られる。残る1人は石見国美濃郡の人で額田部蘇提売で貞婦・社会貢献などが受賞理由となっており彼女は、その屋敷跡というのが伝えられ高橋連波自采女も墓と言われる所在が知られている。また網引は地名が示されているが他は推定の域を出ない。
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