建設までの道程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:06 UTC 版)
淀川は近畿地方の大動脈として関西の政治・経済活動に深く関与している。しかし古来から氾濫を繰り返す河川でもあった。このため明治以降瀬田川洗堰建設や巨椋池の宇治川からの離断・干拓、新淀川開鑿等様々な対策を講じていた。だが1953年(昭和28年)に淀川流域を襲った台風13号は、今までの河川改修を嘲うかのように大きな被害をもたらした。 全国的に水害の被害が連年勃発し、敗戦で壊滅した日本経済がさらに疲弊することを恐れた経済安定本部は淀川を始め利根川・北上川・木曽川・吉野川・筑後川等主要10水系において河川総合開発計画を進め、これ以上の水害による被害拡大を阻止しようとした。多目的ダム建設を骨子とした「河川改訂改修計画」は1949年(昭和24年)に発表されたが、淀川水系においても1954年(昭和29年)より「淀川水系改訂基本計画」が策定された。建設省近畿地方建設局(現・国土交通省近畿地方整備局)はこの計画に沿い、台風13号水害での洪水流量を基準値として治水対策を講じた。淀川本川においては瀬田川浚渫・瀬田川洗堰改築を始め堤防強化に加え、天ヶ瀬ダムを建設する計画を立てた。 木津川流域においては、木津川本川に有力なダムサイト地点を見出せなかったことから支流の開発を検討した。この中で名張川が着目され建設省は名張川本川に月ヶ瀬ダムを、宇陀川に宇陀川ダム(後の室生ダム)を建設する計画を立て、「木津川上流総合開発事業」として1952年(昭和27年)より現地点での予備調査に着手した。
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