庄川夜高行燈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:52 UTC 版)
夜高行燈は15の地区(若連中)にて大・中・小行燈、合わせて約26基が庄川市街地を練り回す。その内「合せ」を行なう高さ約5.5mの大行燈は9基である。 砺波・南砺地方では6月初旬に、田植えが終わり休みを取るという意味の「ヤスンゴト」(休んごと)といわれる習慣があり、この時期に合わせ各地で五穀豊穣を願う田祭りなどが行なわれているが、庄川区域では福野町(現 南砺市福野町)の福野夜高行燈をまねて、金屋・青島地区の人々が昭和7、8年頃行燈を作成し練り回した。その後各地区が行燈を新たに制作、そして競い合ううちに大型化していった。 その後、第2次世界大戦の影響により祭り自体がすたれ廃絶してしまったが、1953年(昭和28年)より始まった庄川町観光祭にて復興し盛大に行なわれるようになり、最盛期には30数基の大小行燈が街を練り回した。だが昭和30年代に入ると行燈制作により仕事へ支障をきたすことや、自動車普及により街練りに支障をきたすようになり徐々に数が減り、1962年(昭和37年)にはまたも廃絶してしまった。しかし1972年(昭和47年)に金屋地区清水町内の人々が復活を志すこととなり、翌1973年(昭和48年)に金屋・青島地区の人々が、大行燈6基、中・小の行燈10数台を曳き出したことで再び復興を果たし、以降現在まで受け継がれている。また、2012年(平成24年)11月17日には、大行燈を有する8町の若衆約20名が「庄川夜高若連中」を発足した。 2015年(平成27年)には、1988年(昭和63年)まで大行燈を出していた京坂若連中の大行燈が27年ぶりに復活した。これまで曳き手の不足により、1989年(平成元年)以降は中行燈のみを児童・園児らの手によって練り回していたが、大行燈復活の機運が町内の若手たちから2年ほど前より高まり、準備に取り掛かってきたものである。
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