幻になった路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:21 UTC 版)
広島瓦斯電気時代に、広島市から呉市を結ぶ鉄道路線敷設を計画した。1919年(大正8年)12月20日に申請。計画では、呉側の終点は三津田橋周辺を計画。さらに、本通りまで軌道路線敷設の特許申請を行っていた。その時は、省線(呉線)との競合路線になることより却下された。その後、路線短縮を行い広島から船越間に変更し、1926年(大正15年)2月18日に免許を取得した。日本製鋼所広島製作所への通勤輸送を目的にしたが、当初の南側の路線計画では、川船の往来妨害になることより断念。その後に計画された北側の路線計画では、省線と競合路線になることで、度々申請されていた工事着工延期申請を却下。1931年(昭和6年)8月5日に免許は失効した。電車宮島駅(現・広電宮島口駅)から山口県岩国市への路線敷設申請も行われたが免許取得はできなかった。また、横川から甲田町(現・安芸高田市)の甲立までの路線計画も存在した。 また、広島商工会議所が1927年(昭和2年)に発刊した『大広島の建設』で、横川線を延伸して江波に至る路線(後に江波線として実現)、的場町から段原町を経由して鷹野橋に至る路線(後に皆実線として実現)、己斐から観音橋・住吉橋・鷹野橋を経由して段原町に至る路線、横川から白島を経由して広島駅に至る路線、猿猴橋から尾長町を経由して府中に至る路線が提案され、それを受けて広島瓦斯電軌は青写真を作成し検討されたが、大半は実現しなかった。 戦時中の1945年(昭和20年)7月に、三菱重工業広島機械製作所への工員輸送のため、天満町から昭和新開(現・観音新町)間(約3km)の特許を得た。資材は、三菱重工業からの提供および白島線の単線化で賄うとされた。しかし、同年8月の広島市への原爆投下で市内線は壊滅的な被害を受け工事に着手できず、1959年(昭和34年)に起業廃止申請を行い特許は失効した。
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