幻に終わった日中和平会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 22:32 UTC 版)
日中戦争(支那事変)が勃発した昭和12年(1937年)通州事件が起き、当時の首相・近衛文麿は、父の近衛篤麿や外相・広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を立てた。その上で蔣介石と親しい頭山を中華民国に派遣し、和平の糸口をつかもうとした。 近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見ていた内大臣・湯浅倉平(元警視総監・内務次官)が参議起用に反対したため実現しなかった。 戦争が長期化し、日英米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆の緒方竹虎に蔣介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。 これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蔣介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。
※この「幻に終わった日中和平会談」の解説は、「頭山満」の解説の一部です。
「幻に終わった日中和平会談」を含む「頭山満」の記事については、「頭山満」の概要を参照ください。
- 幻に終わった日中和平会談のページへのリンク