幻に終わった障害転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:00 UTC 版)
1994年(5歳)は札幌日経オープン、札幌記念と連勝するが、ホクトベガにとって中央のレース体系は生易しいものではなかった。古馬のGIは全て牡馬との混合戦、ハンデ戦や賞金別定戦ではGIホースであるが故に重い負担重量を課されて苦戦が続き、結局5歳時は9戦に出走して2勝、3着1回着外6回という、GIホースとしては物足りないものとなった。この状態を見た中野は、平地GI優勝馬でありながら障害への転向を考え、6歳になった1995年の正月明けから実際に障害飛越の練習を開始する。ホクトベガは障害飛越がうまく、1月のアメリカジョッキークラブカップを控えた中であったが調教は障害練習を中心に行われ、追い切りはレース直前に1本行われただけであった。これについて中野は「入障するプランもあるが、今回(AJCC)は斤量が軽いので使ってみることにした」とAJCCのレース前に語っている。ところが障害転向がほぼ決まっていたAJCCでホクトベガは先頭で直線に入ると、最後はサクラチトセオーに交わされるもののクビ差の2着に入線、結局障害レースへの転向は白紙に戻されることとなった。 ホクトベガは後にダートで圧倒的な強さを見せるが、この時に行われた障害飛越の練習による足腰の強化が活躍に繋がったのではないかと考える者もいたという。中野も障害練習がホクトベガの心身を共に鍛え、さらなる成長を促したのではないかと語っている。さらに、2年前にメジロパーマーが史上初の「障害帰りのGI馬」となったこともあり、程度の差こそあるものの調教において障害飛越の練習を採用する厩舎が急増するきっかけにもなった。現在では、平地競走で調子を落とした馬のリズムを取り戻させるために行う手段の一つとされている。
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