平田紡績の経営者・暁学園の教育者
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「宗村完治」の記事における「平田紡績の経営者・暁学園の教育者」の解説
日常では「自分も今日あるのは、すべての人々のおかげ」と「感謝」の言葉を座右の銘として、生来の指導者として、暖かい思いやりと慎重な判断によって人々の敬愛を一身に集めた。副理事長で四弟の宗村南男と共に父宗村佐信の遺業を受け継ぎ暁学園の経営に宗村家の兄弟で取り組んだ。 平田紡績の経営者として、平田紡績に不動産事業部を新設して富洲園団地を建設した。天ヶ須賀地区の人口を増加させる住宅団地の大規模開発を実施した。1978年(昭和53年)に四日市市富洲原地区の天ヶ須賀本町自治会にあった平田家が大地主として所有していた四日市漁網工場と富洲原工場の生産量を減少させて、平田家が先祖代々所有していた工場用地を放棄して規模を縮小した。バブル経済の進行で昭和50年代から不動産価格が向上したことから、不動産を賃貸して利益を得る住宅を開発する事業によって、平田紡績の赤字体質の改善を目指して、四日市の富洲原第2工場の用地(住吉町側の南半分)を住宅団地の富洲園自治会として不動産売却した。 1981年(昭和56年)10月に、工業用の機械を製造する会社の「平田工機株式会社」(現在はオークキャピタルの連結子会社となっている)を設立した。 1978年(昭和53年)に暁学園の理事長職を末弟の宗村南男に譲り、平田紡績社長として責務に専心したが、1983年(昭和58年)3月25日に急性心不全のため急逝した。享年50。弟の宗村明夫が平田紡績の社長代行職となった後、7代目社長に就任した。 平田紡績は宗村完治が行った、富洲園団地として四日市第2工場の跡地を賃貸する不動産事業が裏目に出て、地産グループ総帥の竹井博友による四日市市天ヶ須賀の平田紡績工場の跡地に高層マンションを建設する事業構想のため、株式の大量購入により平田紡績を乗っ取って買収をするきっかけとなった。
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