市議会の建物
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「ミーニンとポジャルスキー広場」の記事における「市議会の建物」の解説
この建物は、ボルシャヤ・ポクロフスカヤ通りの始点に位置する。建物内部には、弁護士会と地方裁判所がある。 以前ここは商人ブグロフの屋敷だった。石造りのブグロフ屋敷以前は、別の実業家の木造住宅だったが、1851年にブグロフの会社に買収された。1852-1854年に3階建ての石造りの屋敷が建てられた。 ニジニ・ノヴゴロド地域研究の創始者Nikolai Khramtsovskyの見解は次の通り。 「この広場はもちろん都市全体でも最高の建物、それがブグロフの屋敷である。[中略]この屋敷の建築は非常に軽妙かつ優雅で、ラストレッリ伯爵の手法を彷彿とさせる。」[要出典] 当時は1階が交易店舗、2階部分は市立劇場だった。劇場の立ち退きをめぐる紆余曲折を経て、やがて新たな場所に劇場が建設されると、ニコライ・ブグロフ議員が5万ルーブルでこの建物を購入した後にドゥーマ(市議会)へ寄付。その用途に関して「劇場や酒類販売は不許可」「収益を貧困層救済の基金に向けること」などの条件をつけた。市議会は一階を店舗に二階を市立図書館にしようとしたが、改装中の1898年に火災が発生して、建物は完全に潰れてしまった。 1899年までに、建築家ウラジーミル・ツァイドラーが新たな建物を草案した。1902年に屋根が付くところまで建物が組み建てられ、1903-1904年に室内装飾が施された。現在でもその室内装飾は最も貴重で、会議室のインテリアには1896年の全ロシア博覧会から王室装飾の要素が使われた。建物のファサードは「古代ルーシ」で定型化されながらも、アール・ヌーヴォーの要素が入っている。 1904年、市役所が新たな構内に置かれた。1908年から1972年にかけての会議室にはコンスタンチン・マコフスキーの絵画『Appeal of Minin』があった。ロシア革命までこの建物は市議会を収容していた。 2月革命期間の1917年末から1918年9月まで、この家は労働者代表の暫定評議会に占領された。1919年末から現在までこの屋敷は労働組合団体に属しており、そのためこの屋敷が「労働の宮殿」と名付けられた。
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