市議会の建物とは? わかりやすく解説

市議会の建物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 08:43 UTC 版)

ミーニンとポジャルスキー広場」の記事における「市議会の建物」の解説

この建物は、ボルシャヤ・ポクロフスカヤ通り始点位置する建物内部には、弁護士会地方裁判所がある。 以前ここは商人ブグロフの屋敷だった。石造りのブグロフ屋敷以前は、別の実業家木造住宅だったが、1851年にブグロフの会社買収された。1852-1854年に3階建て石造り屋敷建てられた。 ニジニ・ノヴゴロド地域研究創始者Nikolai Khramtsovskyの見解次の通り。 「この広場はもちろん都市全体でも最高の建物、それがブグロフの屋敷である。[中略]この屋敷建築は非常に軽妙かつ優雅で、ラストレッリ伯爵の手法を彷彿とさせる。」[要出典] 当時1階交易店舗2階部分市立劇場だった。劇場立ち退きをめぐる紆余曲折経て、やがて新たな場所に劇場建設されると、ニコライ・ブグロフ議員5万ルーブルでこの建物購入した後にドゥーマ市議会)へ寄付。その用途に関して劇場酒類販売不許可」「収益貧困層救済基金に向けること」などの条件をつけた。市議会一階店舗二階市立図書館にしようとしたが、改装中の1898年火災発生して建物は完全に潰れてしまった。 1899年までに、建築家ウラジーミル・ツァイドラーが新たな建物草案した。1902年屋根が付くところまで建物組み建てられ、1903-1904年に室内装飾施された。現在でもその室内装飾は最も貴重で、会議室インテリアには1896年の全ロシア博覧会から王室装飾要素使われた。建物ファサードは「古代ルーシ」で定型化されながらも、アール・ヌーヴォー要素入っている。 1904年市役所新たな構内置かれた。1908年から1972年にかけての会議室にはコンスタンチン・マコフスキー絵画Appeal of Minin』があった。ロシア革命までこの建物市議会収容していた。 2月革命期間の1917年末から1918年9月まで、この家は労働者代表の暫定評議会占領された。1919年末から現在までこの屋敷労働組合団体属しており、そのためこの屋敷が「労働宮殿」と名付けられた。

※この「市議会の建物」の解説は、「ミーニンとポジャルスキー広場」の解説の一部です。
「市議会の建物」を含む「ミーニンとポジャルスキー広場」の記事については、「ミーニンとポジャルスキー広場」の概要を参照ください。

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