工機学校復活から閉校まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 04:31 UTC 版)
「海軍工機学校」の記事における「工機学校復活から閉校まで」の解説
14年間の空白期間のうちに、石油専燃のボイラーやタービンが一般化し、さらにはディーゼル機関やガソリン機関の導入が始まっていた。また航空機や潜水艦などの新兵器も急激に浸透した。これらの新技術や新兵器に対応すべく、機関学校での教育は重要性を増し、造船・造兵の現場では、質量ともに優れた技術者を多く求めるようになった。 1928年6月23日、「海軍工機学校令」が制定され、工機学校が復活した。カリキュラムは機関術と船匠術(のちに工作術へ改称)の二本立てで、普通科・特修科・専攻科の3コースが用意された。復活から6年後の1934年には、兵科学校と同じく高等科も増設され、ようやく機関科にも高等教育の環境が整備された。復活前と同様、士官・准士官を「学生」、兵・下士官を「練習生」として教育した。 船匠術から工作術への改称は、単に名称の変更に留まらず、溶接技術などの造船分野や、サルベージ作業に不可欠なダイバーによる水中潜水作業などの新たな高等技術の研究開発の成果を受けてのことである。これらの変化に対応すべく、1941年4月1日に「海軍工作学校」が新設され、工作術の教育は工作学校へ移譲された。 日華事変から太平洋戦争へと戦線が拡大するにつれて、艦艇および造船所では技術者のニーズが逼迫したため、工作学校は収容能力を大幅に上回る増員を強いられた。また、航空機の整備術や施設設備の建築術が新たに追加され、工作学校における教育の充実が急務となった。そこで、新規の工作術教育は1944年6月から学生は横須賀海軍工作学校で、練習生は沼津海軍工作学校で実施することとなった。 1945年3月1日、機関学校の兵学校統合が完了したため、工機学校がその名を継承して新機関学校を名乗るとともに、大楠分校を本校に昇格することになった。横須賀校は学生に対する教育を行う一方、大楠校では練習生に対する教育を推進した。しかし7月15日、大楠校は各種術科学校と同様に繰上げ卒業が行われて閉校となり、施設は本土決戦部隊に接収された。 終戦とともに横須賀校も閉校となり、激動の変遷を繰り返してきた工機学校の歴史は終わった。
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