工場労働者を背景に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 15:34 UTC 版)
「春陽館 (岸和田市)」の記事における「工場労働者を背景に」の解説
1930年(昭和5年)4月、大阪府泉南郡春木町(のちの同府岸和田市春木泉町1560番地、現在の春木泉町5番地23号)に開館した。開館当時の岸和田市内の映画館は、欄干橋南側の魚屋町にあった朝日座(旭座とも、経営・古南米蔵)、堺町の岸和田館(経営・山口藤次郎および吉田常三郎)、北町の電気館(のちの岸和田電気館、経営・西田源次郎)、下野町の吉野倶楽部(経営・奥佐太郎)の4館が存在した。1935年(昭和10年)1月には同市内北町に山村劇場(のちの岸和田東映劇場)、1939年(昭和14年)2月には、本町に岸和田東宝映画劇場が開館している。開館当時の同館の経営者、観客定員数、興行系統等は不明である。同館は紀州街道を北西に入った路地にあり、同街道の東側には和泉紡績の工場(のちの東洋紡春木工場、現在跡地はUR都市機構春木団地)があって、その労働者を背景に立地していた。また、春木川の南側には大阪窯業岸和田分工場(現在跡地は岸和田コーポラス)、岸和田紡績社宅も存在し、多くの人々の労働と生活の地であった(右地図)。同館は、南海鉄道の春木駅からは、1キロメートルほど西に離れていた。 1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については記載されていない。同書によれば、当時の同館の経営者は小南捨三郎、支配人は藤井松太郎と記載されており、観客定員数の記載はない。同年4月1日、同館が位置した春木町は、合併して岸和田市になった。翌1943年(昭和18年)発行の『映画年鑑 昭和十八年版』には、同館の経営者として藤澤武也の名が記されており、観客定員数は405名であったとされる。藤澤武也は、戦後、大阪市大正区の大運橋映画劇場(戦前の港賑館)の支配人を務めた人物である。
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