工場団地造成計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 16:22 UTC 版)
1970年代に、農地や果樹園造成、土採りによって遺跡の一部が壊される。また、このころから吉野ヶ里丘陵一帯の広い範囲で甕棺が出土するようになった。また、県立高校の移転改築の候補地になったが、広範囲にわたって遺物が出土していたため断念された。 1970年代後半に佐賀県によって調査が計画されたが、事前調査に追われて実施に至らなかった。 1980年代に入って、企業誘致の為に佐賀県は吉野ヶ里丘陵南部に工場団地の開発を計画する。その際文化財発掘のための事前調査を1983年(昭和58年)から始める。1986年(昭和61年)の本格調査によって、約59ヘクタールもの広範囲に遺跡が広がっていることが判明し、県は工場団地計画を縮小する。
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